図187.元治元年御郡内人別宗旨分并戸数諸工諸家業牛馬船総括牒
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総戸数は四万三五一五軒で、一軒ごとの職業が書かれている。一番多いのは当然ながら「農業」で二万二三五二軒で、全体の半分強である。その他は「日雇」四五八〇軒、「漁師」一五〇三軒、「御家中」・「御給人」を含めた武家は三七六〇軒である。諸商売では「荒物店」が特に多く一三九〇軒、「小間物店」六七〇軒、「穀物店」五九五軒などである(いずれも休店を含む)。一般的に江戸時代の農業人口は全人口の八割以上を占めたといわれるから、「農業」の割合が少ない感がある。各村の人別帳をみると、在方商業に従事している者は農地の所持・不所持にかかわらず別の家業に分類されており、総括表はいわば専業農家の数字である。「荒物店」なども在方に相当数いるものと思われ、農村でも何らかの商売にかかわっている者が多いことを推測させる。この面改めは続く慶応元年(一八六五)から慶応三年にかけても増減部分を修正する形で継続して行われたようで、調査月はそれぞれ八月である。
領内の正確な家業等を把握するのは、人と経済の動きを把握することで藩の統制を強化しようとする試みであったが、あくまで人口調査は手段であって目的ではない。寛政の調査では、結果を受けて鑑札を交付し直すなど、諸商売に関する規制が強化されているが(資料近世2No.二六〇)、文久の面改めではそのような処置が講じられた形跡はない。実際には、出稼ぎや在方商売によって経済的利益を得ようとする領民の動きを食い止めることは不可能であった。明治維新により個別領主権による人や物資の移動規制が撤廃され、近代資本主義の時代を迎えるまであと数年を残すのみであった。