天保以後の藩財政については、大きな凶作にも見舞われなかったため年貢収入も順調であった。『記類』嘉永三年(一八五〇)七月二日条には、御貯籾は一五万四〇〇〇俵に及び、収納蔵を新規に建設するよう沙汰があったという記事があり、御備金(おそなえきん)も三万二〇〇〇両にも及んだという。もっとも、これは必ずしも藩財政の好転を意味するのでなく、備荒貯蓄に関しては不安が少なくなったと理解するべきであろう。実際は依然として借財関係の記事が諸史料にみられる。安政二年(一八五五)には、蝦夷地の第二次幕領化により幕府から再び蝦夷地警備を命じられていたし、同年には江戸で安政地震が発生、藩邸の復旧費や藩士の手当金などの不時の出費がかさむなど、財政状況の不安定材料は尽きなかった。
嘉永三年当時、藩では銀主(資金の貸主)二五人から元利合わせて九九〇〇両の借金を、天保十五年(一八四四)から五ヵ年無利息で借りたままであった。この年さらに五ヵ年延長しようとしたため、銀主たちが不服を述べ、これ以上強行すれば今後の融資に差し支えるとして、仲介に立った江戸蔵元の津軽屋三平が一四ヵ年賦、毎年一〇〇〇石ずつの返済を藩庁に嘆願している。しかし、藩はこの年上野寛永寺山門普請の上納金や、「異国船渡来海防」の経費がかさみ、とても支払える状態でなかった。銀主たちからの借金の際、津軽屋は彼らに対し原則無利息で融資するよう説得したり、藩が払うべき利息の一部を立て替えることすらしていた。津軽屋の面子を潰すこともできないと判断した藩庁は、当面利息分の支払いをすることに応じた。これとは別に、藩は銀主四二人から計一万一八八一両余の借金があり、困窮した銀主の中には家屋敷まで質入れした者もあったという(資料近世2No.一一二)。
藩では親交のあった近衛家からも「御殿御備金」を借りており、さらに近衛家の知行地があった伊丹(いたみ)の有力商人からの借銀も多額に及んだ。藩では天保十三年(一八四二)から五〇ヵ年賦で返済する計画を立て、毎年伊丹に廻米三三〇石を送付して返済に充てることとした。しかし、様々な経費が重なって、約束の廻米量を確保できなくなり、嘉永五年(一八五二)に、向こう七ヵ年は一五〇石ずつに減額を嘆願、了承されている記事が「近衛家雑事日記」同年十月十六日条にみえる。しかし、七年後の安政六年(一八五九)には再び七ヵ年の延長を申請、さらにその七年後の慶応元年(一八六五)にも同様の願いを出している。年ごとの額からすれば少額であるが、それすら滞るという、藩の慢性的財政難の状況が浮き彫りにされている(長谷川成一・坂本壽夫「近衛雑事日記」解説 年報『市史ひろさき』八・九)。