南溜池の武芸鍛錬

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幕末期に入ると、南溜池の南岸に藩の武備施設である「矢場」「銃場」(星場)が設置された。「矢場」が設置されたのは、貞享四年(一六八七)であり、その後享保年間にもその整備の行われたことが知られる。それ以後、南溜池「矢場」において弓術訓練が行われたという記事はみかけることがなかった。しかし文化三年(一八〇六)に入ると、「矢場」地へ通じる新寺町からの道路の取り付けがなされ(同前文化三年十月十四日条)、十二月には「大矢場地」取り立てに加えて射芸師範の家臣が、同地にて勝手次第に弓術稽古をすることが下命されている。五年後の文化八年には、九代藩主津軽寧親が直々に南溜池の「大矢場」へ出かけて、家臣弓術訓練を検閲した。

図38.南溜池大矢場之図
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 文化三年に至って、なぜこのような南溜池矢場における弓術訓練と藩主による検閲が頻繁になったのであろうか。その背景には、江戸幕府から藩に下命された蝦夷地警備の軍役負担が、大きな影響を与えたのではなかろうか。周知のごとく一八世紀後半に帝政ロシアの船舶が、太平洋沿岸を南下して蝦夷地近海に出没するようになった。江戸幕府はこのような情勢を重要視して、津軽弘前・盛岡両藩に蝦夷地警備を命じた。
 南溜池矢場の文化八年からの藩主直々の検閲による、藩士に対する武備強化は、このような蝦夷地警備の事情が深くかかわっていたに違いない。当時、弓がいかなる戦術的な効果を持ちえたのかは、いささか疑問であるが、直接的な武備強化には連動しなくとも、藩主直々の検閲がもたらす家臣団に対する精神的な緊張の効果と、領内支配と家臣団統制の強化をねらったものと考えられる。現に文化十一年(一八一四)を境として、津軽弘前藩の蝦夷地警備は松前地域に限られ、しかも領内沿岸警備に重点が移行したにもかかわらず、文政期・天保期にも南溜池矢場での「家中射芸」の藩主「高覧」、もしくは家老による検分は盛んに行われた。
 安政期に入ると、南溜池の土砂の掘り上げが行われ(資料近世2No.一八三)、安政六年(一八五九)には家臣団水練稽古が実施された。また安政六年六月には、「ハッテーラ」(端艇)の乗り回し方の検分があり(同前No.一八八)、同様のことは、万延元年(一八六〇)十二月にも実施された(「国日記」万延元年十二月五日条)。

図39.端舟を漕ノ図