近衛(このえ)家の先祖は有名な藤原鎌足(ふじわらのかまたり)で、鎌倉時代に近衛・鷹司(たかつかさ)・一条・二条・九条家の五摂家(ごせっけ)に分かれ、歴代の摂政関白を勤めてきた最も由緒ある公家である。近衛家は五摂家筆頭で、津軽家の先祖藤原政信が近衛尚通(ひさみち)の猶子(ゆうし)(養子)となったのを契機に近衛家を宗家と仰ぐようになったと幕府に届け出ていた。藩政前期の対公家関係は通史編2(第二章第一節)に詳しいので、ここでは藩政後期から幕末期にかけての近衛家と津軽家の関係をみていこう。
弘化四年(一八四七)十月、幕府は各大名家から系図の提出を求めたが、その際、津軽家では先祖の藤原政信の出自について尋ねられた。この件については既に文化七年(一八一〇)にも幕府から近衛家との関係も含めて聞かれたことがあり、幕府はかなり信憑性(しんぴょうせい)に疑問を抱いていたようである。その時は九代寧親(やすちか)が、政信は近衛尚通の猶子ではなく庶子であると改めて回答し、後日近衛家にも届け出ていたが、嘉永二年(一八四九)閏四月には近衛家より今後の系図改めでは津軽家を近衛家の庶子とする旨、回答があった。津軽家にしてみれば血のつながりがない猶子よりは、血脈につながりが出る庶子の方が好都合であり、この返礼として毎年近衛家に提供していた冥加金(みょうがきん)に六〇両を加えることとした。近衛家が津軽家を庶子と認めたのは、文化年間の一〇万石への高直りに伴って官位と家格が上昇したことに原因があり、津軽家は系図改めや典礼儀式、藩主が他出する時に用いる用度品、たとえば金紋先挟箱(きんもんさきはさみばこ)・虎皮の鞍覆(くらおおい)・茶弁当・御長刀(おんながかたな)・爪折御傘(つめおりおかさ)など、近衛家の家紋のついた物品の贈与などを通して家格を確認しており、両家の関係は密接であった。少なくとも津軽家側は、当家は近衛家の御威光で成り立っているとの意識があり(「雑事日記」弘化四年一月五日条)、自分につながる家系を正当化するためにも近衛家とより深い縁を結ぶ必要があった。
さらに弘前藩は儀礼的な面にとどまらず、近衛家より借財を重ねており、現実に財政面でも不即不離の関係にあった。当藩が近衛家より「御殿御備金(ごてんおそなえきん)」という借財を願い出たのはかなり以前のことのようだが、このほかにも近衛家の領地伊丹(いたみ)(現兵庫県伊丹市)の有力商人からも同家を介して借銀を重ねていた。さらに、天保年間に入ると藩財政の逼迫(ひっぱく)から毎年納めていた冥加金もしばしば中断され、合計の借財は相当額に及んだ。あまりの不義理に藩では天保十三年(一八四二)にこれらを取りまとめて、以後五〇ヵ年賦で返済する計画を立て、毎年代米として廻米三三〇石を伊丹に送付することとした。ところがこの計画もやがて遂行できなくなり、嘉永五年(一八五二)には廻米を今後七年間一五〇石に削減してほしい旨、近衛家に申し入れ、了承を得ている(同前嘉永五年十月五日条)。この上申は安政六年(一八五九)九月、慶応元年(一八六五)七月にも繰り返されており、深刻な財政難は慢性的に続いていたことがわかる。ただ、近衛家側が藩のなし崩し的な返済削減を受諾したのは、その理由として凶作などによる窮乏のほかに、藩が蝦夷地警備負担や領内沿岸の警備施設増設に伴う出費を挙げており、ある意味で近衛家が警備問題に果たした役割も無視すべきではないであろう。