社家・修験隊の組織

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藩兵の払底が深刻化していた明治元年(一八六八)十二月五日に軍政局は、榎本艦隊がどこに侵入するかもわからず、応援人数の配置も困難だとして、社家(しゃけ)(神官)および修験(しゅげん)(山伏)の者で武芸に精通し盛壮な者を、防備が手薄な所へ応援を命ずるとして、社家隊諸事取締役斎藤長門小野若狭・長利(おさり)薩摩へ、修験取締役大行院(だいぎょういん)・管之坊(かんのぼう)へそれぞれ任命した(資料近世2No.五二〇)。藩としては殺生を禁じる僧侶は別として、荒行(あらぎょう)などで鍛えている修験者社家をも兵員の素材としたのであり、軍事情勢はそこまで切迫していたのである。
 それでは、両隊の成や携帯していた武器はどのようなものであったのだろうか。「御軍政御用留」十二月五日条によると、組織された社家修験隊はそれぞれ二小隊ずつで、社家隊は小隊長の他に伝令士が四人、隊員は三八人で、藩兵の銃隊と比べれば、人数がやや多いものの、ほぼこれにならっていることがわかる。また、修験隊は伝令士三人、隊員三六人で、これも同様といえる。両隊の訓練には軍政局より銃隊頭修験隊取扱として船水新五兵衛・松田良三郎の二人が任命され(前掲「御軍政御用留」明治元年十二月十四日条)、ゲベール銃の操作を教授したが、各史料には大砲隊の組織まではみえないことから、銃隊編成にとどまったようである。その後、両隊では社格の高低による人員の入れ替えが多少あったが、基本的な隊員成には変化がなく、東組四小隊・西組四小隊の八小隊が組み立てられ、鼓手も藩から派遣されている(同前明治元年十二月二十七日条)。
 このように、両隊は一応は近代軍隊の様相を帯びていたものの、実際に各地に配備されても、相当頼りないものと庶民の目には映っていたようである。たとえば、五所川原市の長利家に伝わる史料には修験隊を皮肉った戯(ざ)れ唄が残っているが、それをみると、当時の人びとがどのようにこの部隊をみていたかよくわかるので、以下に掲げた。
調練の稽古なき日ハ朝まから、あげ屋二階へ則面に行く、
銃隊の組立多くある中に、面(つ)ら青くする昆布隊もあり、
修験隊軍(いくさ)にまける其(その)時は、しやくじやう(錫杖)振て祈り沈(しずめ)る、
修験隊出張仕度ハあんまりな、隊ニ似合ハぬほらを吹く、
社家隊ハ元より得(え)ての笛太鼓、手拍子なくてハあら気之(の)毒な、
御獅子を真先ニたてた社家銃隊、賊従共をバ大口て呑む、
(長利家文書 三〇〈『五所川原市史』史料2 No.六八九〉)

 つまり、隊員は稽古のない日には朝から女郎屋に入り浸り、軍事調練に耐えられずに顔を青くし、戦いに負ければ錫杖(しゃくじょう)を振って神に祈ればいいと揶揄(やゆ)されるばかりか、軍隊でありながら法螺(ほら)貝を吹くほうがお似合いだ、笛・太鼓はあっても手拍子がなくては調子もあがるまいといった、軽侮(けいぶ)とも、時代の変遷に対する驚きともつかない心情がこの文章にはよく表れている。ただ、社家修験隊は農兵同様、あくまで藩兵の補助兵員として駆使されただけであり、最前線への投入などを目的としたものではなかった。戊辰戦争といっても、実弾が飛び交う戦場から、警備の補助で足りるようなさまざまな局面があったのである。