神仏分離とは

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慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた新政府の成立宣言が、王政復古の大号令であった。この宣言は天皇を中心としてその下に総裁議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職を置き、諸事神武(じんむ)創業の始めに基づいて国威を挽回(ばんかい)せんと記しており、政体を律令(りつりょう)時代の往古に戻そうと意識したものであった。そして、この大号令を受けて新政府には太政官(だじょうかん)と神祇官(じんぎかん)の二官が置かれ、祭祀(さいし)をつかさどる神祇官が上位とされた。
 このように、新政府神道国教化を推進したが、その過程で神社から仏教色を取り払おうとした政策が神仏分離であり、明治元年(一八六八)三月十七日に神祇事務局より諸社に対して布達が出されたのを最初として、以後一連の神仏分離令が次々と出された。分離令のおおよその内容は、従来寺院に合祀(ごうし)されていた神社寺院から切り離すことであり、具体的には神体を仏像として祀ることの禁止、鰐口(わにぐち)(仏殿などの銅製の金鼓)・梵鐘(ぼんしょう)など仏具の除去、別当(神社に付属していた寺院の長)・社僧といった寺院神社両属の者の還俗(げんぞく)(僧籍から離脱し、髪をのばすこと)と神主(かんぬし)・社人(しゃじん)への転身などであった。
 つまり、新政府が当初意図したことはあくまでも仏教神道の分離であり、必ずしも仏教を弾圧することではなかった。しかし、神仏混淆(しんぶつこんこう)は長年にわたってなされてきた現象であり、広く庶民にも根付いた信仰形態であったため、何が仏教に属し何か神道に属するのかさえ判然としない場合も多く、最初は非常な混乱を生じた。また、それまで仏教勢力に押されていた神官たちの一部には、この時とばかりに新政府の威を借りて廃寺・廃仏運動に激化する例もみられた。たとえば伊勢(現三重県)では明治二年三月の明治天皇行幸までに領内一九六ヵ寺すべての廃寺を決定し、富山藩では九ヵ寺を残して一六二七ヵ寺の寺院整理を断行した。また、滋賀県の日吉神社ではおびただしい数の仏像・仏具・経典・什器(じゅうき)類が破棄され、奈良の興福寺では僧侶全員が還俗して春日神社神官となったため、興福寺は無住の寺となり、荒廃して五重塔が売りに出されるまでに立ち至った。このような仏教に対する排撃を廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)というが、それは地域の宗教の在り方を濃厚に反映して、神道や国学勢力の強い所ほど過激であった。
 神仏分離廃仏毀釈は本来まったく別個な政策・運動であったが、両者の進行過程や相関関係をみることは地域社会の宗教の特色を考察する事につながる。では、弘前藩ではどのように神仏分離が行われたのだろうか。