ねぷた

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ねぷ(ぶ)た」は七月一日から七日まで、現青森・秋田両県などで行われる飾り物行事である。飾り物を作って練り歩き、これを川や海に流す風習は全国に広く行われており、この飾り物ももとは祓(はらい)の撫物(なでもの)として作った人形(ひとがた)であったことが推察される。
 「ねぶた」は、坂上田村麻呂が蝦夷を征伐した時の記念だと伝えられている。しかし、これはおそらく睡魔(すいま)の意味であって、秋をひかえ労働の妨げとなる眠気(ねむけ)をしりぞけるために、
 「称ぶた(眠気の意)ハながれろ。まめ(勤勉の意)の葉ハとゞまれ。いや/\、いやよ。」(資料近世2No.二四六)と唱える。
 これは眠流(ねむりなが)しの民俗行事に災厄を払うための人形流し、盆の精霊送りである灯籠送りなどが習合したものと考えられている。
 弘前城下で運行された「ねぶた」の最古の記録は、「国日記」享保七年(一七二二)七月六日条にみえている。この日に、五代津軽弘前藩主津軽信寿(のぶひさ)が織座(おりざ)(機織(はたおり)する所。富士見橋(ふじみばし)近くの紺屋町(こんやまち)にあった)に出かけて、町印のついた一番から八番までの「ねぶた」が紺屋町から春日町(かすがちょう)へ練り歩いて行ったのを観覧している。
 藩士は正式に参加できないので仮装して出たらしい。「ねぶた」は町人の行事だったのである。津軽の眠流しがしだいに一般化して、「ねぶた」という灯籠祭としての形式が整ってきたのは享保(一七一六~三六)ころといわれている。幕末の天保五年(一八三四)七月七日に一〇代藩主信順(のぶゆき)が上覧した際の「ねぶた」は、見物人がおびただしい数にのぼり、物々しい警戒のもとに運行された(藤田本太郎『ねぶたの歴史』一九七六年 弘前図書館後援会刊)。これらは大人による運行と思われるが、祭として盛んになってきている様子を推定できる。
 「金木屋日記」(資料近世2No.一九四)によれば、町人がみた幕末の「ねぶた」の様子は次のようである。
 嘉永六年(一八五三)七月五日の夜、賀田(よした)村(現中津軽郡岩木町)の豪商武田家の人々が、家老大道寺(だいどうじ)家(現県立弘前中央高校グランド西側で、弘前城東門に近い位置)の門わきへ蓙(ござ)を敷き、自分たちが勝手に「ねぶた」の優劣の審査をしながら楽しく見物している。やがて武田家では「ねぶた」を見送って本町(ほんちょう)まできたところ「明け七ツ」(午前四時~六時)となり、そこから賀田村の自宅へ歩いて帰ったので朝になったという。
 翌六日も城下へ出てきている。見物していた場所は明らかではないが、鍛冶町(かじまち)の「ねぶた」が大きく、二〇〇人ほどの人夫が担いできたものの、大きすぎるのであろうか、運行が思うにまかせず困っている、と書かれている。この「ねぶた」が大道寺家の前を通ったのは明け方であった、と記されているので、「ねぶた」の運行は朝まで行われていたものと推定される。
 「ねぶた」の際には些細なことから喧嘩が始まり、負傷者が出るなどしだいにエスカレートしていったようである。安永八年(一七七九)に、子供の「ねぶた」に藩士の子供が加わり、喧嘩・口論などになっているので、今後は(1)藩士の「ねぶた」は屋敷内だけとし、門外に出ないこと。(2)町人にはその町内のみ運行を許可し、木の脇差を腰にさすこと、棒や鳶口(とびぐち)を持ち歩くことは認めない、と規制された(「国日記」安永八年七月十一日条)。これは風紀の乱れを防止するために出されたものである。
 天保十三年(一八四二)には、町人の子供の「ねぶた」に壮年の藩士および召使の者が参加し、喧嘩・口論に及んでいるので、他町への運行を禁止されている(同前天保十三年六月二十二日条)。
 さらに「国日記」弘化三年(一八四六)六月二十八日条に記されているのは、大人か子供の「ねぶた」か判然としないが、壮年の婦人(身分階層が明らかではないが)が運行に参加して、風紀が乱れていることに対する規制であった。このような規制が藩政後期の「国日記」に頻出してくるのは、緩んできた社会の風潮を象徴しているといえよう。

図127.祢婦太之図