江戸幕府は慶長年間(一五九六~一六一四)から、中世以来の特権を保持してきた仏教諸宗派・修験・神道に対して、個別の法度を発令して宗教勢力を支配下に取り込み、『諸宗末寺帳』(一九六八年 東京大学出版会刊)を提出させた。寛文五年(一六六五)には「諸宗寺院法度」の「本末之規式不可乱之」により、本末制度の確立を図った。しかし、幕府の政策は京都に多い本山を通して伝えられる不便さがあった。これを補うため、江戸に各派の役所である江戸触頭(ふれがしら)=僧録(そうろく)所を置かせ、寺社奉行から直接布令を伝達することにした(高埜利彦『近世日本の国家権力と宗教』一九八九年 東京大学出版会刊)。浄土宗は増上寺、浄土真宗は築地本願寺・浅草別院、曹洞宗は関三刹の宗寧寺(下総)・大中寺(下総)・龍穏寺(武蔵)、日蓮宗は身延派が瑞輪寺・善立寺・宗延寺、本圀寺が報恩寺・幸龍寺・宗林寺、池上本門寺が承教寺・朗惺寺、中山法華経寺が妙法寺、水戸久昌寺が大乗寺、勝劣派が本妙寺・長応寺、什門派が妙国寺・本光寺・慶印寺であった。神道の場合は、神道長上を称した吉田神社の祠官吉田家が、寛文五年の「諸社禰宜法度」により、幕府の権力を背景に全国の神職を編成していった。吉田家の関東役所は寛政三年(一七九一)に至ってようやく開設された。
津軽弘前藩では触頭=僧録の本末制が、寛文五年のキリシタン改めの際に機能していた。寛政三年には各宗派の僧録所に対し、僧侶の破戒同様の言行を取り締まらせた。これは寛政改革の一環として、藩主から風俗・綱紀取り締まりを各宗の僧録所へ命じたものとみられる(前掲『日本近世の法と民衆』)。