八幡宮(現弘前
八幡宮)は弘前の惣鎮守であった。「
社堂縁起」(資料近世2No.四一三)によれば、慶長十七年(一六一二)、信枚が賀田村(現中津軽郡岩木町)より移転させ、信義が社領三〇石を寄進したという。
最勝院が
別当で、神仏習合のあり方から
最勝院本堂に安置した
八幡宮の本地仏は阿弥陀如来、勢至・正観音菩薩であった(同前No.三九九)。
藩主は
最勝院へ立ち寄り、それから社参するのを常とした(「
国日記」元禄十四年三月十八日条)。毎年正月には
藩士による鉄砲打・二月の初卯日・八月十五日には
神楽が奏され、
祈祷が行われた。また、
松前出兵の
藩士へ渡海安全の守札を配布した。
天和二年(一六八一)から、八月十五日の
祭礼には、隔年で
神輿の渡御、町内から
山車の行列が出て見物人でにぎわった(「
国日記」)。
神主小野氏は、
別当最勝院の支配を受け、
熊野宮(現熊野奥照(くまのおくてる)
神社)
神主長利氏とともに
社家頭として、領内
神職の九〇パーセントを配下に置いた。禰宜町には
八幡宮下
社家五軒が置かれ、
八幡宮の掃除・雪片付け等を行った。
図225.弘前八幡宮