館神(たてがみ)は弘前築城にあたって城の鎮守として祀られた。「社堂縁起」(同前No.四一三)は、慶長十六年(一六一一)、信枚の創立で、信政が供米三石五斗を寄進したとする。天保八年(一八三七)、六石五斗を加え、合わせて一〇石となった。「国日記」では、館神の初見は天和元年(一六八一)二月二十六日条に、館神宮は元禄四年(一六九一)三月二日条にみえ、元禄四年、正徳四年(一七一四)、享保十六年(一七三一)、宝暦四年(一七五四)の再建や葺き替えの際、同じ建物を厳密に区別せず館神、館神宮と両様の呼び方をしている。
場所は北の郭の南東部分であり、宝暦六年(一七五六)の「御本城絵図」(弘図郷)に、「御館神」とあり、明治三年(一八七〇)の「御本城御絵図」(同前)でも変わっていない。この場所を弘前市教育委員会は、平成十一年(一九九九)から翌年にかけて発掘、調査し、館神の本殿跡、鳥居の一部と礎石、参道の一部を確認した。
宝暦十年(一七六〇)の「社堂惣調書上帳」(弘前八幡宮蔵)では、
となっており、目付三上定右衛門の編した「朧月集」(弘前市立図書館蔵)には、
とあり、八幡・稲荷を祀っていた。城内に位置する特殊な事情のためか、毎年、正月四日の神事は神主小野筑前宅で、九月十五日の神楽は八幡宮神楽殿で行っている。「国日記」では、宝暦九年二月七日の稲荷宮の初午に七代藩主信寧と息女が、北の郭へ出て参詣しているところから、この時すでに稲荷が祀られていた可能性が強い。また、信寧とその後の藩主も参勤交代の前後に参詣しており、道中の安全を祈ったことがわかる。館神の神体は正八幡宮であり、後に稲荷宮が加えられたようである。『記類』によれば、正八幡宮の神体は豊太閤(ほうたいこう)坐像であった。この秀吉の木像は明治になって東京の津軽家へ移され、昭和三十二年(一九五七)より、革秀寺の津軽為信霊廟に安置されている。稲荷宮の神体の稲荷神倚像(弘前市立博物館蔵)は、仏教系の変形荼吉尼天(だきにてん)像であるが、ここに祀られていたものとみられる。天保九年(一八三八)からは、和徳稲荷宮・白狐寺稲荷宮・革彦稲荷宮・築館稲荷宮・住吉宮とともに六ヵ所稲荷の一つとして、領内五穀成就の祈祷を行う役割が加わった。
明治三年(一八七〇)の「御藩内御崇敬神社調」(弘図岩)からは稲荷宮とあり、正八幡宮は消えている。これは、秀吉像が東京へ移され、稲荷宮が残されたためではないかとみられる。この稲荷宮は、廃藩の時、城外へ移され、高山開運稲荷神社へ合祀された。その後、弘前城西の郭に移り、昭和五十一年(一九七六)、弘前八幡宮境内へ移転した(篠村正雄「弘前城の館神について」『市史ひろさき』七)。