同十九年小野権太夫が、追放された神宮太夫に代わって神主になると、社家頭も命じられた。社家頭は社人頭(しゃにんかしら)・注連頭(しめかしら)とも呼ばれ、神職組織ができたのはこの時であろう。また、八幡宮・熊野宮には、それぞれ六供と呼ばれる下社家一二人が所属し、両神主とともに禰宜(ねぎ)町を形成した。
寺社奉行は、寛文元年(一六六一)の切支丹改衆から仕事を引き継ぎ、延宝六年(一六七八)に岡文左衛門・成田七郎右衛門が任命されたのが始まりである。寺社奉行の設置によって寺社行政が整備されていく中で、神職組織も整えられていった。八幡宮の別当最勝院は、寺社奉行のもとにあって、領内神職の約九〇パーセントを配下に置き、社家頭を通して神職の上申・下達・継目上京・棟札の下付、年始礼を受けるなど、神職支配に非常に強い権力を行使した。
社家頭は、宝永四年(一七〇七)までは小野氏一人であったが、この時から熊野宮神主長利弁太夫が相役として加わり、月番制がとられるようになった。しかし、月番制はその後行われなくなり、延享四年(一七四七)に復活した。宝暦改革や幕末の稽古試しの際、綱紀粛正を進める中で自らの権力強化を企てるが、最勝院の支配下にあって徹底したものにはならなかった。小頭が両社家の下に置かれたのがいつであるかは明らかでないが、享保三年(一七一九)には四人が配置されている。彼らは社家領からの飛脚による下達を組下神職へ廻状にするほか、最勝院の呼び出しに付き添って出頭する役目を持っていた。
神社、神職の序列は、大社・小社の区別、社禄の有無、神職としては神主・社司号の名のりの別、御目見(おめみえ)・御目見以下、社家禄の有無、神祗管領長上吉田家(京都)からの官職受領の有無などによって決まった。
神職に対するキリシタン改めの具体的な例は、神明宮(弘前)神主斎藤長門配下のものが残っている(資料近世2No.三八九)。領内の神職は領民と同じに伊勢太々神楽料が課せられ、弘前の神職はこのほか、時鐘茂合金(もやいきん)の負担があった。