見直したい弘前市の記録

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みちのくの小京都と呼ばれる城下町であることから、弘前市には古い和風建築が立ち並ぶイメージをもつ人も多いだろう。だが思った以上に古い和風建築は多くない。むしろ明治以降の近代洋風建築に素晴らしいものが多く、近代国家の成立期以降、弘前がモダンでハイカラだったことを裏づけている。平成十五年(二〇〇三)、市では「フランス料理と洋館の街弘前」を前面に押し出したイベントを展開している。歴史を重視した政策として積極的に評価できるものであろう。
 これら洋風建築物の多さは、まず第一に、弘前に入ってきたキリスト教の影響が大きかった。現在でも弘前昇天教会弘前学院外人宣教師館弘前カトリック教会日本キリスト教弘前教会など、キリスト教に関する建築物は多い。そのほかにも旧弘前市立図書館旧東奥義塾外人教師館などは、当時ハイカラな文化施設だったことを象徴していよう。第二には、青森県では青森銀行みちのく銀行が二大銀行として県内を席巻しているが、銀行の発祥地はすべて弘前だったということがある。青森銀行は当初第五十九銀行だったが、その建物は現在青森銀行記念館として残っている。青森銀行の旧津軽支店も、現在は弘前市立百石町展示館として改築され保存されている。みちのく銀行は最初、弘前無尽という庶民金融機関として始まったが、その建物は現在三上ビルとして、部分的にではあるが、当時の趣を残している。軍事施設として忘れてはならないのが、陸軍将校のサロンだった偕行社である。建物自体は弘前女子厚生学院が管理し、一時期、学校施設として使用していたが、その後は記念館として保存されている。

写真233 百石町展示館


写真234 三上ビル

 一方、弘前城跡の北方、亀甲門から出ると、数々の武家屋敷が並ぶ仲町伝統的建造物群保存地区がある。昭和五十三年に史跡指定されているが、在府町にあった武家屋敷の旧梅田家、元寺町にあった藩医の旧伊東家も移築され、市の重要な観光スポットになっている。これと隣接する近世江戸期の商家だった石場家住宅、昭和五十六年(一九八一)に市に寄贈された武家屋敷の旧岩川家なども見逃せない。さらに明治期に建てられ、現在も旅館業を営む石場旅館も見落とせない。当時から石場旅館は名門旅館で、陸海軍の御用宿でもあった。石場旅館は、規模こそ往年ほどの大きさでないが、現在も営業を続けている。

写真235 石場旅館

 弘前市郊外の船沢にある瑞楽園大石武学流枯山水式庭園で、弘前藩の時代に高杉組の大庄屋を代々務めていた対馬家の書院庭園として造られた。その後、明治期の庭師で武学流の造園では第一人者といわれた高橋亭山が一五年間かけて造った庭を、昭和期に亭山の門人が増改築して完成させた。弘前地方に伝わる武学流庭園の造庭技法がよく残された庭園として記憶されたい。また、庭内には近世江戸後期の茅葺(かやぶ)き農家もあり、国指定の名勝となっている。
 弘前市が城下町であることは、町名が弘前藩時代の伝統を残し、現在も市民に親しまれていることでわかる。土手町、鍛冶町をはじめ、代官町、桶屋町、百石町、親方町、紙漉町、紺屋町、若党町、五十石町、元大工町、元寺町など、城下町の風情を残す町の名前がたくさんある。そしてそこに住む人々もその町名に誇りを持っている。開発事業に伴う地域間の再編成などで、古くからの伝統ある町名が次々に失われつつあると言われて久しい。ただ、弘前においては、いくつかは町名改正事業で廃止されたが、総じて町名の保存については熱心で、城下に関してはほとんどがかつての町名のままに残っている。また、古町名の由来を記した標柱を市内該所に設置し、市民の意識向上を促すとともに、観光客の便宜にも供しているが、その標柱自体が城下町の風情に新たな彩りを添えるものとなっている。弘前市に関する各種各様のジャンルを通じたホームページを見ると、いろいろな人たちが新たな市の景観を見つけている。平成期がコンピューター時代だからというわけではないが、市の観光政策コンピューター時代にふさわしい事業を展開していくことになるだろう。電子媒体による映像などを駆使した観光施設も結構だが、二一世紀に入ってからはインターネット時代になり、いろいろな人々が個性に合わせて観光を楽しむ時代に入っている。これにより市民自らも観光政策を講じ、新たなスポットを発見して公開したり、市の観光当局にも意見を提案したりして、自発的に弘前市の観光を盛り上げていくことになるだろう。本当の意味で市民の時代が来るのかもしれない。