①松前、江差番所箇所のこと。
②西地のうち勤番所の箇所、勤番人数、武器人員。カラフトの勤番所および渡海船。
③松前、江差に立てている御条目、領主よりの制札のこと。
④知行所の運上金、受用金取の名前。侍分の人員、宛行高。足軽、中間の人数のこと。
⑤江戸詰の役人姓名、役名。侍分、足軽、中間人数のこと。
⑥出府の節、召連のものの名前、役名、惣人数のこと。
⑦年々羽州より買受米高、船役米。近国より買入米高のこと。
⑧山林伐木種類。他国への移出高数。
⑨毎年宗門改のこと。
⑩領内寺社寄付米のこと。
⑪田畑の場所がない理由。
⑫畑作の場所および畑役金取立のこと。
⑬運上物取立のために差し遣わす場所および取扱方手続のこと。
⑭カラフト島へ毎年役人の渡島期間のこと。
⑮カラフト島にて、山丹より渡来の商品、また日本より山丹へ渡す商品および山丹人の取扱のこと。
⑯家来のうち市中へ屋敷を差し遣わしたものの名前、町名のこと。
⑰異国船漂着の節、役人中取扱方法(役人詰合、注進、警固人数、武器等々)のこと。
⑱異国船漂着の節、江戸表へ届の有無。
⑲異国船漂着の場所、取扱方のこと。
⑳享和三年および文化二年分の収納高。
②西地のうち勤番所の箇所、勤番人数、武器人員。カラフトの勤番所および渡海船。
③松前、江差に立てている御条目、領主よりの制札のこと。
④知行所の運上金、受用金取の名前。侍分の人員、宛行高。足軽、中間の人数のこと。
⑤江戸詰の役人姓名、役名。侍分、足軽、中間人数のこと。
⑥出府の節、召連のものの名前、役名、惣人数のこと。
⑦年々羽州より買受米高、船役米。近国より買入米高のこと。
⑧山林伐木種類。他国への移出高数。
⑨毎年宗門改のこと。
⑩領内寺社寄付米のこと。
⑪田畑の場所がない理由。
⑫畑作の場所および畑役金取立のこと。
⑬運上物取立のために差し遣わす場所および取扱方手続のこと。
⑭カラフト島へ毎年役人の渡島期間のこと。
⑮カラフト島にて、山丹より渡来の商品、また日本より山丹へ渡す商品および山丹人の取扱のこと。
⑯家来のうち市中へ屋敷を差し遣わしたものの名前、町名のこと。
⑰異国船漂着の節、役人中取扱方法(役人詰合、注進、警固人数、武器等々)のこと。
⑱異国船漂着の節、江戸表へ届の有無。
⑲異国船漂着の場所、取扱方のこと。
⑳享和三年および文化二年分の収納高。
これらの質問項目に、松前藩側はいちいち答えているが、幕府側がもっとも知りたかったのは、西蝦夷地内の場所経営、アイヌへの対応、異国船の取扱等に関する松前藩側の態度ではなかったろうか。
これらの質問項目に対する答書のなかに、たまたま文化元年の各場所ごとの知行主、アイヌ男女別人口を示した記録がある。イシカリ十三場所の場合のみを掲げると、表2のごとくである。イシカリには、トクヒラとナイボウ(ナイホ)の「御手場所」があって、アイヌの総人口は、二五八二人、うち男一三七三人、女一二〇九人であった。
表-2 文化元年イシカリ十三場所知行主・アイヌ男女別人口 |
場所名 | 知行主 | 人数 | 男 | 女 |
トクヒラ | 御手場所 | 875 | 448 | 427 |
ナイボウ | 御手場所 | 27 | 14 | 13 |
サツホロ | 目谷安次郎 | 129 | 68 | 61 |
シノロ | 高橋壮八 | 98 | 49 | 49 |
サツホロ | 南条郡平 | 247 | 137 | 110 |
下カハタ | 土屋高八 | 163 | 85 | 78 |
上カハタ | 佐藤彦八 | 422 | 233 | 189 |
上ユウバリ | 松前鉄五郎 | 121 | 71 | 50 |
下ユウバリ | 蠣崎左兵衛 | 165 | 80 | 81 |
ハッシャフ | 酒井伊兵衛 | 57 | 37 | 20 |
シママッフ | 下国 脇 | 75 | 45 | 30 |
ツイシカリ | 松崎多門 | 93 | 48 | 45 |
ツイシカリ | 松前彦三郎 | 110 | 58 | 52 |
合計 | 2,582 | 1,373 | 1,209 |
『北巡録』より作成。 |
遠山景晋は、福山で西蝦夷地巡見の下準備をしながら、村垣定行の到着を待って、文化三年三月十六日松前を出発し、西蝦夷地へ向かった(村垣は、三月二十三日に出発)。
一行は、ソウヤまでの途中、江差姥神社で「降福孔夷」の額について質したり、蝦夷地内の山道切開箇所等を調査している。イシカリには、福山を出てから約一カ月後の四月二十日に到着した。『遠山村垣西蝦夷地日記』には、イシカリの状況を次のように記している。
石狩 [海路六七町引込候間、勤番所有之、松前若狭守家来上役壱人下役両人相詰候。石狩川附之諸役所、運上屋、蝦夷家モ有之候。ヲタルナイ川端より陸路凡三里余、大体丑寅に向ひ罷越申候。]石狩川幅六十間余、川上船路凡十日程有之、北より南に流れ海に入申候。右川内之諸国の船多く入込、蝦夷地第一の大河にて、川の左右遥に打開き、雑木茂り候て、格別の広場に相見申候。
以上からしても、イシカリには松前藩の役人が上役下役各一人ずつ詰めており、イシカリ川付の役所や運上屋、アイヌの人家があって、川内には諸国の船がたくさん輻湊してにぎやかであったようである。
一行は、イシカリには一日逗留したのみで、そのまま西海岸をソウヤまで巡見した。帰路は、五月十四日にソウヤを出立し、六月一日イシカリに到着した。ここで十日ほど滞在した後、船でイシカリ川を遡り、トクヒラ、ヤウシフハ、マクンベツ、シビシビ、トリアシ、フシコベツ、ハッサム川、ヤウシハ、サッポロ、ヒトイ、トウペツ、「津石狩川」を過ぎ、エベツブトよりエベツ川に入り、シコツ越えルートをとって御用地であるユウフツへ抜けた。途中、トリアシでは、水底が平らで網引に良い場所なので年々大漁と記していることから、網による漁法が行われていたのであろうか。また、「津石狩川」のところで、「四、五年以前大水にてサツポロ川上に切所出来、其後ツイシカリ水深、船通路自由の川に罷成候由」と、サッポロ川の本流が四、五年前にツイシカリ川に切替わったという、きわめて重要なことを記している。