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疱瘡の犠牲

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 このような漁場労働の集約的利用に可能な一大村落をなしていたイシカリ場所が、ひとたび疱瘡の流行に見舞われるや悲惨な状況を呈したことはいうまでもない。
 イシカリ川口には、十三場所の一三の運上屋が、すでに天明年代(一七八一~八八)から軒をつらねており、このほかに、弁天社、板蔵、茅蔵、切囲(を塩〈漬〉切して翌年まで貯蔵しておく蔵)、仮小屋(商人たちの宿所)等があって、十三場所の中枢をなしていた。
 イシカリ場所では、文化十四年二月から疱瘡が流行しはじめ、請負人側でも一同が心配し、医師を派遣するなど手当を行った。しかし、秋になってもおさまるどころかますます広まり、もしひとたび伝染するや全身が紫色となり、二、三日で死亡するものが相ついだ。『蝦夷地御用見合書面類』(阿部家文書)の文政元年三月六日付「西蝦夷地イシカリ場所疱瘡流行ニ付御内意奉伺候書付」によれば、同十四年春より同年十一月までに、イシカリ場所総人別二一三〇余人のうち、疱瘡による死亡者が、五六〇人余にものぼったという。その後も流行はおさまらず、「彼是千人程死失仕候段追々及承」といった悲惨な状況にいたっている。

写真-3 「蝦夷地御用見合書面類」二十二項
文化14年、イシカリ場所に疱瘡が流行し、多くのアイヌが死亡(東京都 阿部正道氏蔵)。

 結局のところ、翌年四月中までに、二一三七人のうち九二六人が罹病し、八三三人が死亡、回復したものは小児ばかりというありさまで多くの働き手を失った。
 イシカリ場所での疱瘡の流行は、これまでにもおこっており、安永九年(一七八〇)の場合、「西部石狩地方夏ヨリ秋ニ至リ疱瘡盛行ス、夷人死スル者六百四十七人」(松前家記)というごとく、大きな犠牲があった。これより約一〇年後イシカリ場所の人口は、六五七人(西蝦夷地分間)ということになっているので、安永の疱瘡流行で人口が半減したことになるのだろうか。
 しかし、前述したように、イシカリ場所のその後の人口増には目立ったものがあり、他場所がらの流入なども考えられるが、それにしても人口の回復力に目ざましいものがあったようである。
 ところが、文化十四年の場合、多くの働き手を失ったことから、秋味漁にすぐさま影響をおよぼした。いつもの年だと、八〇〇人ほどの男女が集まって、一一〇余統の網を使って漁をするのだが、文化十四年では二三統の漁しか行われず、オショロアイヌ出稼鮭漁(例年一〇統ほど)も行われなかった。翌年も三〇統くらいの漁しか見込みがなく、例年の四分の一程度の漁獲量しか望めない、という状況であった。
 このような状況にたちいたったイシカリ場所の請負人阿部屋村山伝兵衛は、つぶさにこの状況を訴え、運上金の減額を嘆願した。この嘆願に対して、文政元年(一八一八)九月、阿部屋に次の運上金半減の許可がおりた。
     申渡
村山伝兵衛
其方請負罷在候イシカリ場所去丑年より当寅四月下旬迄疱瘡流行ニ付蝦夷人夥敷死亡いたし漁猟格別ニ相減し、其上蝦夷人庖瘡相煩候ニ付ては、介抱方多分之入費も相懸り候趣ニ付、格別之訳を以両三年之内運上金半減差免候間、可相成丈ケ出精いたし、右年限中以前ニ復し候様可致候。尤秋味運上金弐千弐百五拾両之内千百弐拾五両、十三ケ場所夏場運上金六百七拾八両永百七拾五文之内三百三拾九両永八拾七文五分、且去丑年運上金納残之分九百弐拾五両之内三分一差免、六百拾六両弐分永百六拾六文七分上納可致
  寅九月
(村山家資料 道開)

 これにより、阿部屋は、「秋味運上金」二二五〇両、「拾三ケ場所夏商運上金」六七八両余をそれぞれ半額に、また、前年未納分の九二五両の三分の一も免除といった特別な措置を認めてもらった。
 ところで、この疱瘡流行に際し、事態を重くみた松前奉行では、幕府に指示をあおぐほかなかった。文政元年十月付の幕府の指示によれば、どんなに漁業中であっても、疱瘡にかかった病人のみ漁場に残して手当し、残りのものは、伝染を防ぐために山中に立ち退かせるようにするがよいといった指示も出された。また、ゆくゆくはアイヌに施薬治療を行うよう、御医師を選んでまず風邪や腹痛などの服薬治療からはじめ、次第に疱瘡の施薬治療に備えさせるがよいといった意見も出された(蝦夷地御用見合書面類)。
 一方、幕府や松前奉行でも、この疱瘡によるアイヌの犠牲について、請負人側が漁事ばかり大事にしてアイヌを避難させないことが理由なのではないか(同前)といった見方もしていた。事実、松前奉行の事情調査の過程では、次に掲げるような、請負人側が、アイヌの病死者が続出するなかで、さらに鮭漁を継続していこうとしていた記録さえ見出されたのである。
去丑年二月下旬より疱瘡流行、別て八月頃より大勢相煩候ニ付、請負人共より種々手当等為致候得共、追々死失仕、相残候者共も山奥へ逃去候ニ付、猶又行衛為相尋番人共差遣飯料其外手当等為致候得共、右逃去候者とも迚も於山奥押なへて死亡仕候儀ニて、去丑年秋味漁之儀は最初網数五十五統相立候得共、弥増疱瘡熾相成候ニ付、踏止居候者共も速ニ逃去、漸網数二三統ニて始終漁事いたし(後略)
(イシカリ場所疱瘡流行ニ而蝦夷人大勢死亡仕候始末幷漁事手続等相糺候趣左申上候 同前)

 こうなると、疱瘡によるアイヌの犠牲者が多かったのは、アイヌ自身が病気に対する抵抗力がなかったとするよりも、むしろ請負人が漁事の方を優先させるあまり、アイヌの疱瘡罹病者への手当と同時に、伝染防止の措置を怠ったがために犠牲を集中的なものにした請負人側に問題があることも明瞭である。したがって、疱瘡の流行によるアイヌの犠牲者を多く出したことは、この時期のイシカリ場所のアイヌの労働力の管理が、請負人によってがっちりと握られていたことの結果である。この傾向は、幕府直轄後、ことに文化四年以後強められた。