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弘化三年の調査

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 武四郎は上記六回の蝦夷地調査のうち、イシカリに立ち寄り、そこを拠点にサッポロの地域を検分、調査したのは、弘化三年、安政三・四・五年の四回の踏査行の折に見られる。これらの検分を追跡してみよう。
 最初の弘化三年(一八四六)は西・北蝦夷地巡行の途次イシカリへ立ち寄っているが、往路は五月九日オタルナイよりイシカリに寄港して翌日ソウヤに向けて出港し、復路八月にソウヤより再びイシカリに寄り、この時はじめて調査がなされている。その概略を『再航蝦夷日誌』によってなぞってみたい。
 〈イシカリ〉イシカリには松前藩勤番所があり、その建物は玄関付の大きなものであり、ここに重役(目付代)、徒士、医師が各一人、足軽六人が配属され、足軽六人のうち二人はイシカリとオタスツに詰めて越年、他は秋味漁終了後に帰藩するという。運上屋も大変大きな建物で、附属して魚見台、蔵(二〇余戸)、塩切長屋(大小八、九戸)、弁天社、それに夷人小屋(六、七軒)がある。イシカリ場所は阿部屋村山伝次郎の請負で、その運上金二二五〇両、夏場秋味金一〇〇〇両、差荷物代上乗金三九両一歩である。このイシカリ場所に属するアイヌの人たちは、二九年前の人別では二八三〇余人であったのが、現在八八四人と三分の一以下に激減し、「実ニ嘆ずるも余り有こと也」と述べている。
 〈ハッサム〉八月十九日にイシカリ運上屋を丸木舟で発して石狩川をさかのぼり、二里三二町余でハッサムに至る。ここに「酋長一人、平夷人五、六軒」あり、この枝川筋は昔より漁猟の多い所という。ハッサム番屋の運上金は金四〇両、別段金一〇両、差荷物代金四両という。
 〈サッポロ〉ハッサムよりさらに一八町上って右にサッポロに至る。ここにも「酋長幷平夷人小屋凡六、七軒」ある。この枝川の川上は沼であるといい、夷人小屋も多しと聞く。サッポロ番屋の運上金四六両、別段上乗金二両二分、差荷物代四両。また上サッポロ番屋運上金三五両永五〇文という。
 〈ビトイ〉さらに上るとビトイ着。本名シノロであろうかと武四郎は推測している。番屋あり、傍らに蔵、弁天社があって小運上屋の態である。夷人小屋もあるが皆出稼ぎの由。シノロ番屋運上金三八両一分、上乗差荷物代金三両。
 〈ツイシカリ〉サッポロより七里でツイシカリに至る。イシカリ十三場所中の特に大場所で、大きな番屋、蔵々、弁天社があり、また夷人小屋は五、六軒で「酋長一軒。小使一人。土産取一軒」あり。イシカリ勤番所より年一回見廻りがあったが、現在金子を渡して見廻りを断るようになった由。ツイシカリはここより石狩川を一里上った所に元来あったそうであるが、二〇年ばかり前に現在地に移動したものであると聞く。土地肥沃で大豆、隠元豆、南瓜、茄子、大根、稗、呱吧芋等を、耕作禁制のため奥の山でひそかに栽培しているが、その成育は良好である。ツイシカリ番屋の運上金は金五五両、別差荷物代金二両、下ツイシカリ番屋運上金三七両、別差荷物代三両二分である。この日は当所に宿泊。
 そして翌二十日ツイシカリを立って、シノツ、エベツプトを経て、江別川(千歳川)に入り、シママップ、チトセから、二十二日にユウフツへ抜けている。