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改革まで

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 そこで、イシカリ改革に至る経緯をもうすこしたどってみよう。『村垣淡路守範正公務日記』(幕末外国関係文書附録所収、以下『公務日記』と略記)には、安政四年(一八五七)二月三十日条に初めて改革の文字を書き留めている。この年、西蝦夷地スッツで正月をむかえた村垣は、二月二十三日イシカリに着き、新道開削在住入地の手配をし、二十八日千歳に向かう。日記ではうかがい知れないが、前述の『書付』によると、このイシカリ滞在こそ阿部屋の問題点を実地見分するためであったという。
 村垣が三十日千歳に着くと、ここに箱館の堀奉行から書簡(内状)が届いた。その中に「石狩改革、(長谷川)儀三郎出張の見込其外品々申来る」とある。この前後を見ると、スッツ滞在中の一月二十八日にイソヤ場所支配人から「イシカリの儀、為承候事」、二月三日には堀奉行の「石狩大不出来」との書状と風聞書が届く。これらの動きを考えると、イシカリ改革の必要は安政三年末ないし四年初めに課題となっていたわけで、問題化するのはさらに以前ということになる。
 その後、改革への節目になるのは、安政四年閏五月二十四日から六月二日にかけての堀奉行一行のイシカリ調査である。ここで同行の玉虫左太夫は「蝦夷(アイヌ)より承りたる事ありて、其段大略綴り」(入北記)、松浦武四郎は「石狩場所人別帳に添て上る書」をそれぞれ奉行に差し出し「御直捌被仰付候はゞ、土地も早々相開け土人も増殖仕候」(燼心餘赤)と訴えた。これらはいずれも阿部屋罷免を正当化する証拠になり、後処置が直捌の方向へ傾いていった。松浦は閏五月二十三日夜、銭箱で堀奉行に会い「石狩川上の事談話す。是直捌の起元に成」(自筆松浦武四郎自伝)ったと後に回想している。
 この年、イシカリ詰の責任者水野一郎右衛門が左遷され、後任の荒井金助が箱館を出発したのは六月二十八日だから、七月中にはイシカリに到着したはず。この交代時期、兼任で改革の準備に努めるのがスッツ詰長谷川儀三郎で、改革の実現に深くかかわった一人である。『公務日記』安政四年十月十八日条に「石狩一件、金助調出来」とあり、二十一日阿部屋は「土人遣ひ方非道の儀有之に付、心得方申渡」され、十一月七日条には「イシカリ調、評議の趣、尚又金助方へ今日差立」とみえる。堀奉行が廻浦をおえて箱館にもどる九月二十七日から、在箱出勤した十一月十三日までの間に(村垣奉行も在箱)、改革の評議を一応おえ、スケジュールはほぼ出来上がったと見てよい。
 堀が江戸にもどると在府中の竹内奉行をまじえ、幕府として改革を評議し、この件については箱館からあらためて伺書を出さなくてよいから計画をすすめるようにとの返答が、竹内奉行の箱館到着によって、安政五年三月二十六日もたらされた。
 この間、二月二十二日、奉行所の調役下役元締山口顕之進が奉行の指示を受けてイシカリに到着、荒井金助ら現地の役人と改革断行の最終的なつめをした。また、後述のように水戸藩大津浜の勝右衛門にイシカリ川上流漁場見立等を、越後国水原村の喜三郎に開発方御用取扱を命じる準備をすすめた。こうして安政五年四月十三日、イシカリ改革断行の日をむかえるのである。足軽でハッサムに四年間在勤した亀谷丑太郎の回想によれば、六月二日阿部屋から場所を引き継ぎ、その布告をシャコタンからマシケまで一一カ所に触れ出したのは七月だというが、新方針を明示した石狩漁場条目永住人出稼人に示されたのは五月十八日のことであった(新札幌市史 第六巻五九頁、以下『市史』と略記)。

写真-2 石狩川の図(成石修輔著 東徼私筆より)