維新の変革により徳川幕府は倒壊し、明治新政府が成立した。このような状況の中から明治元年四月十二日に箱館裁判所が設置され、同総督清水谷公考が閏四月二十六日に箱館に着任し、翌日杉浦旧箱館奉行より事務を引継ぎ、松前・蝦夷地は新しい政庁の下に統轄されるに至った。そして七月十二日に大友亀太郎も箱館裁判所附属に任じられ、引き続いてイシカリ御手作場の取扱いに従事する。
この大友が附属に就任したと同じ七月に、イシカリ御手作場も新しい展開を見せている。それは石狩役所より、御手作場農民の長蔵が「察歩路村(さっぽろむら)名主」に、また同じく農民松太郎が「察歩路村年寄」に任命されたことである(御用控 大友文書)。名主、年寄は周知のように近世農村の村役人の呼称で、一般に村方(むらかた)(地方(じかた))三役と総称され、その三役の筆頭で村の総轄責任者が名主(または庄屋あるいは乙名)で、その補佐役が年寄(または組頭(くみがしら))、さらにその下に農民の代表者である百姓代(ひゃくしょうだい)が置かれるのが通例であった。これら三役によって村落共同体を自治的に運営するとともに、他方では、領主権力の行政・財政上の末端をも担っていた。松前地ではすでにこのような行政村によって村落は編成され、また蝦夷地においても定住者が増加して集落が形成されるにともない、村並(むらなみ)と称して、村役人を置き村に準ずる取扱いを受ける集落も現れていた。イシカリ御手作場に隣接するシノロにおいても荒井金助による荒井村が建設され、金助が名主、百姓代の村役人を置いていたことは前節で述べられている。
イシカリ御手作場における村役人が、どのような意図のもとに如何なる性格のものとして任命されたかは不明である。御手作場は入植後わずかに三年目を経過しつつある段階で、いまだ自治的組織、あるいは行政・財政上の末端を支える組織としても成熟していないし、またそのために一切を差配する取扱方としての大友の立場を一方で容認しているのである。このように村役人の任命の意図も、またその性格もいま把握しえない。あるいは官費支給による御手作場を解体するための前提処置であろうか。いずれにせよ村役人の設置は、現実的にみると、村としての、あるいは村の形成へ向けての一石であることには間違いないであろう。従来漠然と広大なイシカリの地に包括され、またフシコサッポロ川その他の石狩川支流域を総称してきた広いサッポロ地域の中から、この御手作場地内が、地域的結合と行政上の単位組織をはらむサッポロ村として、ここに生み出されたものといえよう。なおサッポロにあてた漢字は、この明治初年期には察歩路、札縨、札幌等の字が混用されている。