札幌での市中への戸長の導入はやはり五年四月七日で、その日市中の副戸長が任命されている。任命されたのは高橋亀次郎、島倉仁之助、高瀬和三郎である。次いで十一日名主が戸長となり、その余は副戸長になることが布達された。市中の中年寄は名主にあたる地位として認められなかったためか、市中に戸長は任命されなかったようである。その後十月十七日町会所の事務量が増加して来たためだろうか町用掛が設置され、常陸重次郎、浜中伴蔵、藤井喜三郎、刀根孫四郎の四人が任命された。同時に三年の農業規則で設置されていた伍長の市中事務取扱が廃止された。ほかに野島広吉も町用掛となっていたようである。その後さらに手代も設置されており、十一月十八日手代森本清七が解任され、同山口吉太郎が副戸長に昇格した。六年一月二十四日市中の戸長副が任命されることになり、戸長に副戸長島倉仁之助、副戸長に町用掛山口重次郎が任命された。ほかの副戸長については以前通りである(同前)。
事務の煩雑化にともない六年二月札幌市会所も事務分掌がはじめて規定される。会所内を検査方・出納方・受付方に分課し、検査方は市中一般の事務、出納方は貸与受納及び市会所経費、受付方は願い伺届布告を行うことになった。人員の配置は、検査方は戸長島倉一人、出納方は戸長島倉・副戸長高瀬和三郎・町用掛浜中庄兵衛・同中野繁三郎、受付方は副戸長山口吉太郎・同山口重次郎・町用掛野島広吉・同小野新太郎・同前田市太郎である。この時に役所としての体裁がはじめて整ったようである。この指令は区長から出ている(同前)。
前述のように区長には井手、権区長には斎藤が任命されている。この人事は、当時の札幌本庁主任官である松本十郎大判官が前述のような「市中兎角不締有之」ために区長・権区長を置くことを指令していることによる(松本判官 札幌滞在事務取扱備忘誌)。この区長たちと市会所との関係は、区長たちが市会所の上位にいて、市在の事務を細大となく合評し、区長は一・六の日、権区長は隔日に市会所へ出頭して市会所の事務を監督するものである。その権限範囲は札幌一郡である。この二人はともに開墾掛の兼務である。一方市会所の受付方・出納方双方の副戸長は、申し合いで五日交番で一人が開墾局へ詰めることになっていた(市史 第七巻)。ところが三月十八日区長等と開拓使職員の兼勤が不適当であるとして、井手たちは区長を解任された(札幌滞在事務取扱備忘誌)。七年初めに戸長島倉が解任され、白石村戸長の佐藤孝郷がそのまま市中の戸長に任命される。
区長・戸長の職務や関係については、七年二月頃から札幌本庁と東京出張所との間で検討されている。それによると当時置かれていた役員は、市中戸長一人(月給一五円)、副戸長三人(同二〇円)、各村副戸長一四人(同九八円)、同伍長二九人(同九八円)である。それを区長一人(同二〇円)、戸長一人(同一五円)、上等副戸長三人(同三七円五〇銭)、下等副戸長二人(同一五円)、村用掛二二人(同一〇〇円)にしようとしている。さらに五月二十三日に区長・戸長たちは官吏に準ずる身分として規定され、一部名称も変更され、給与も本来民費負担のところ戸口繁殖までは官費負担となった。それにともなって六月二十三日札幌の区戸長総代たちも名称月給が改正された。戸長佐藤は副区長に、副戸長高木宗三郎・管野宜静は戸長に、町用掛富田貞賢・堺伝助・渡辺富作は総代に、ほかに伍長から五人が副総代に任命された。この検討の最中に市中事務繁多のためと思われるが、市中伍長五〇余人を総括する立場の市中町用助を五人設置した(市史 第七巻)。