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官宅の払下げ

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 開拓使官員への住宅は三、四年頃は不足の状態を呈していた。しかし四、五年の建設時代に大通以北の官地への官宅建設、大通以南への下僚の官宅群の建設を行った。開拓使時代の官宅は、表8の通りである。
表-8 官宅表
官宅名前称・通称・俗称など住所坪数付属建物坪数払下げ起工
年月
竣工
年月
備考
人名
浜益通第1号邸少主典邸大通西6 29坪829 5坪0山崎清躬 9 6年5月 6年8月
〃  第2号邸少主典邸大通西6 29.829 5.0中村邦佐 9 6.5 6.8
〃  第3号邸少主典邸大通西529.8295.0井川 洌96.56.8
〃  第4号邸少主典邸大通西529.8295.0大久保芳96.56.8
〃  第5号邸大主典邸大通西435.717.0中田 黙96.56.8
〃  第6号邸大主典邸大通西435.717.0安田 安96.56.8
〃  第7号邸大主典邸大通西335.717.0岩藤敬明96.56.8
〃  第8号邸大主典邸大通西338.717.0調所広丈96.56.8
後志通洋造史生邸1号史生邸大通西320.442.5小松義夫96.56.8
〃 洋造史生邸2号史生邸大通西320.442.5山口重次郎96.56.8
〃  第8号邸大通西231.012.5家村住義96.56.8
〃  第9号邸二階屋四戸建商家大通西358.69大里偕行
松浦信元
松崎順之助
96.56.8
〃  第10号邸二階屋商家大通西327.947森 源三96.56.8
〃  第11号邸平屋二戸建商家大通西355.68羽山光和96.56.8
〃  第12号邸二階屋商家大通西328.53長尾布山96.56.8
空知通第1号邸少主典邸?北6西628.04.0簗田照-114.4?4.5?
〃  第2号邸少主典邸?北6西626.254.0浅井義孝114.4?4.5?
〃  第3号邸北6西427.04.0山本登能94.7?5.1?
〃  第4号邸北6西326.254.0宇都宮悌三94.7?5.1?
〃  第5号邸北6西326.254.0長谷川節三94.7?5.1?
〃  第6号邸北5西326.255.25三里金次郎94.7?5.1?
〃  第7号邸北6西226.254.0小黒定政94.7?5.1?
〃  第8号邸北6西226.254.0森 経秋94.7?5.1?
〃  第9号邸北5西227.04.0福沢寿祺94.7?5.1?
〃  第10号邸北6西132.08.0重松祐二94.7?5.1?
〃  第11号邸北5西127.04.0森 長保94.7?5.1?
〃  第12号邸北6西130.254.0永井理照94.7?5.1?
〃  第13号邸北6西127.04.0永根平教94.7?5.1?
〃  第14号邸北5西128.04.0内藤兼備94.7?5.1?
ガラス邸夕張通第1号邸,官舎?北4西159.758.04.11?5.4?
創成通第1号邸大主典邸?北3東1?89.97514.0113.?
〃  第2号邸1番少主典邸?北2東150.1911.03.?
〃  第3号邸2番少主典邸?北2東149.8597.0金井信之93.?
〃  第4号邸北2西136.254.0
〃  第5号邸第1番邸?
集議局?,集議所?
北2西132.758.0小笠原久恒92.?2.?
〃  第6号邸6番官邸?,病院?北1東130.4828.0多喜野友三94.2?
3.?
4.4?
3.?
〃  第7号邸営林掛林住居?
2番少主典邸?
北1西134.8758.0高山周徳93.?
〃  第8号邸病院?,6番官邸?北1東1?107.84.0113.?
4.2?
4.4?
〃  第9号邸3番少主典邸?北1西134.8758.0税所篤彦93.?
創成町1~5号仮官邸創成町1番長家
創成通史生長屋
2番使掌長屋
大通西191.666
20.75
20.753.3.
1番使掌長屋大通西191.666?3.3.3年11月
焼失
雨竜通第1号邸北3東126.9164.0久木田直造11
〃  第2号邸北3東127.1664.0東 長教9
〃  第3号邸北3東128.0834.0高畑利宜9
〃  第4号邸北3東129.54.0奥山教造9
〃  第5号邸6番官邸?北2東130.254.04.2?4.04?
〃  第6号邸6番官邸?北2東126.04.0木村成苗94.2?4.04?
〃  第7号邸6番官邸?北1東1?38.756.04.2?4.04?
〃  仮官邸雨竜通1番長家,付属長屋?北1東265.012.0勧業課4.4?4.07?
爾志通1番仮官邸
    1~3号
爾志通1番新長家
   1~3号
南2西557.258.0本郷長久95.75.10
〃   4~6号〃  4~6号南2西557.258.0東  轟95.75.10
〃   7~9号〃  7~9号南2西557.258.0上島 識95.75.10
〃  10~12号〃 10~12号南2西557.258.0木村為蔵
辻 守中
木村重次郎
95.75.10
爾志裏通2番仮官邸
    1~4号
爾志裏通2番新長家
    1~4号
南2西558.08.0田中信邦95.75.10
〃    5~8号〃   5~8号南2西558.08.0斯波淳次郎95.75.10
〃   9~12号〃   9~12号南2西558.08.0上田鉄三郎
千葉元貞
野村幾千代
杉山友諒
95.75.10
〃   13~16号〃   13~16号南2西558.08.0下山依徳
加藤政敏
沢田彰善
近藤多喜男
95.75.10
桧山通4番仮官邸
    1~3号
桧山通1番新長家
    1~3号
南3西557.258.0栗原克忠95.75.10
〃   4~6号〃   4~6号南3西557.258.0山田猪之助95.75.10
〃   7~9号〃   7~9号南3西557.258.0早川長十郎95.75.10
〃  10~12号〃  10~12号南3西557.258.0中根 直95.75.10
桧山裏通3番仮官邸
    1~4号
桧山裏通2番新長家
    1~4号
南3西558.08.0田中勝次郎
野呂田太郎
95.75.10
〃   5~8号〃   5~8号南3西558.08.0関谷 邉95.75.10
〃   9~12号〃   9~12号南3西558.08.0萱野宜静
谷藤善八
井上知之
95.75.10
〃   13~16号〃  13~16号南3西558.08.0宮田善七95.75.10
渡島通裏仮官邸
    1~5号
爾志通裏1番旧町長家町長屋南2西250.0畑中初太郎
久堂安良
荒川定造
名久井幸蔵
池谷卯兵衛
94.5?4.9?
〃   6~10号爾志通裏2番旧町長家五住居町長屋?南2西250.0木村喜平
古賀徳平
水原常吉
鈴木春吉
下堀長平
94.10?5.2?
町長屋,1番長屋南2西237.5?4.34.46年1月
町会所
町長屋南2西237.5?4.34.4市会所
(1番邸)第1号洋造官舎,メジヨロ邸北1西338.45818.006.56.8
爾志通洋造家4棟南2西6203.4441110.611.3
東創成通職工長屋2棟82.512.512.8
小樽通西洋造官舎
   第1~14号
北3西4238.012.813.6旧本庁
構内
雨竜通丸太組官舎露国風丸太組官舎北5東227.87213.113.5
無号官舎4棟小樽通旧本庁内洋造官舎赤官邸北3西4115.98412. 613. 9旧本庁
構内
樺戸通煤田開採事務所係官舎148.74612.1013.113棟
西4丁目官舎小樽通旧本庁洋造角組官舎北3西436.012.613.9
官舎北5西349.582
温室前官舎北4西138.583
大通南側二階屋虻田通第1号洋造官舎?大通西427.947
東創成通四住居官舎北2345東1,2357.013.1114.77棟
北2東2
〃  西1~8号北4東12棟
〃  東1~16号北345東2?4棟
勅奏邸1番邸北4西2103.4665.106.8
洋造2号邸外国教師5人住居南2東1?75.855.86.7
ケプロン邸北2西2
1.遠藤明久『開拓使営繕事業の研究』の表―3・10,11と『開拓使事業報告』第2編土木の部の家屋表をもとに,『庁下官宅払下,貸渡一件書類』(道文1615),『札幌県引継書類扣』(道文5258),『庁下官宅一件』(道文5268),『庁下官宅一件』(道文1614),『小樽往復』(道図),『札幌区劃図』(北大図)などを参考にして作成。
2.官宅名称については遠藤氏上掲書によった。
3.官宅の俗称などとは,建築時の名称や明治8年までの名称及び昔話などに登場する名称である。
4.空知通1~14号邸の起工竣工年については,『開拓使事業報告』家屋表では起工年が不明で,改築年だけが判明しているので,それをとった。
5.創成通1~6,7,9号邸の俗称などの項については,明治2~4年初めの状況を示していると思われる『札幌区劃図』と比較して,ある程度信頼ができるので「札親御開拓記」の官宅名に比定した。
6.創成通6,8号,雨竜通5~7号邸のうち二つを家屋表(開拓使事業報告)4年2月起工の6番官邸と比定してみた。最も有力と思われるのは,雨竜通5,6号邸の組合せか,創成雨竜両6号邸の組合せである。
7.東創成通四住居官舎7棟は『庁下官宅一件』(道文5268)から3組に分けた。
8.払下げ人名年については遠藤氏上掲書によったが,誤植と思われるものについては上記史料で判断して訂正した。

 九年十月開拓使は「官宅払下規則」を制定し(開拓使布令録)、土地と共に官宅を払い下げることにした。払下げをうけたのは多くが現住者であったようである。土地の払い下げ方は、大通以北のように付属地の多い住宅は一坪三銭で、市中の長屋群は地所規則上等の価格で払い下げた。そのため三軒四軒などの長屋は多少複雑な払下げ方となった。長屋は間口一五間、奥行一三・五間の約二〇二坪の土地に建てられていた。それらを三~五人の現住者に払い下げたが、ほぼ均等に払い下げたり、建物の間口にあわせたりした。そうすると四軒長屋の場合などでは長屋の両端のものに土地の端が払い下げられている。したがって幅一四間の四軒長屋は一五間幅の中央に位置して建設されたが、その両端に幅〇・五間、奥行一三・五間で約七坪ずつの空地ができていた。その空地は長屋の両端の払下げを受けたものに属した。したがって払下げを受けた坪数は、四軒長屋の場合、端から五四坪、四七坪、四七坪、五四坪のようになった。しかし三軒長屋などでは間口一五間を均等に割って、それぞれ六七坪ずつ払い下げられた場合もある。その場合など建物との関係が複雑になったはずであるが、どのようにしたのか不明である(地価創定請書)。このように払い下げられたため、この一帯は地割が複雑になって、五間二七間の一三五坪の基本形がかなり崩れた。
 また官宅払下規則第二条で「使員ノ内ニテ望ミ無之官宅ハ市民ト雖払下ヘキ事」とあり、市民へも土地家屋が払い下げられる可能性が生まれた。このことは官地と町地との区別を解消する可能性が生まれたことを意味する。しかし実際にはその住宅の現住者に払い下げられることが多かったため、官地町地の区別はやはり残存した。したがって都市としての札幌が自由に発展するにはまだ程遠い状態であった。しかし市民も官地へ進出する可能性が法制上認められたことは、後の発展の足掛かりになったはずである。特に五間二七間を基本に区切られた町地に対して、官地は六〇間四方の区画、またはその二分の一や四分の一に地割されていた。その広さは、大きな可能性を秘めた空間として存在していた。その空間への足掛かりがこの時に生まれたといっていいであろう。