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新しい農業の導入

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 開拓使や多くの移民団体が実地にあたって依拠した生活方式や勧農の理念は、意外に旧慣を重んじた伝統的なものであった。しかしケプロン以下外国人顧問団の来日以後、とりわけ北海道の農業・牧畜方面においてはその推進指導者であったエドウィンダン、ルイス・ボーマー、ウィリアム・スミス・クラーク等の着任(明治九年)以後、着実な技術上制度上の改革と進歩がもたらされたかにみえる。
 その第一が東京と北海道、とりわけ札幌周辺に巨費を投じて設けられた官園等の諸施設であった。その後それら施設の充実と活用を中心に種々の施策が実行されている。その一つが前章でも一部ふれた洋式農業技術修業の制度であった。ケプロン等の献策により、当時世界でも最新の技術段階にあった北アメリカの農業機械や新作物の種子や家畜の導入につとめたが、それを使いこなすのは容易ではなく、そのための速成技術伝習の制度がそれであった。八年十二月農業現術生徒取扱例則が制定された。生徒は年齢一五歳~二五歳、五〇人を限度に選択採用し、五年間給料を与えながら各種教科を実地に学ばせ、卒業後も月俸を支給して開拓の実務につかせた。札幌本庁では九年及び十年に三〇人の生徒を募集している。人数は少なかったが、卒業後は各地において、また開拓使の官員として新しい農業の指導に従事した。
 次に洋式農具の導入も重要な施策であった。移民の日常使用する農具は、扶助規則による給与品をみてもほとんどが在来型の農具であり、高度の集団移住村である琴似兵村でも二十年頃まではそうであったという。しかし開拓使西洋農具貸与規則(七年)や開墾略則(十一年)などを設けて西洋農具を貸与し、その使用法を教え、また安い賃料で開墾を請負ったりしてその普及につとめた。そして農具の売下を希望する者も増えたので、一般的なものを札幌器械場七重官園等で製作し需要にこたえた。農具はプラウハローが最も多く、ついで荷馬車、馬具、ホー、レーキ、ホーク、スペート、シャベルなどであった。十年に一頭曳プラウが琴似・山鼻両村へ一七台ずつ入り、同二頭曳が円山・平岸両村へ三台ずつ、上手稲村に二台入っている。十年~十四年の農具売下合計でみると、プラウの合計は札幌市街三、札幌村三、円山村七、平岸村四、上手稲村四、下手稲村一、琴似村二〇、山鼻村二一、雁来村三、白石村一、篠路村五、月寒村七などの数字がある(開拓使事業報告 第二編―勧農)。このほかでは、伊達移住士族の有珠郡が一二七台ととびぬけて多かった。これを除けばその数は多いといえないが、新しい農業のあり方を代表する象徴的な意味はあったし、大農具に限らない小農具や運搬用具などもそれなりに入っている。