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屯田兵制の終結

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 北海道に住民が増え開墾が進むと、屯田兵制に対する見直し意見や反論が出てきた。たとえば奥羽日日新聞(明治二十四年八月六日付)社説は「北門の鎮守益々怠るべからず」を論じ、軍兵を配置するよりも殖民開拓こそ真の北門守備であるとし、屯田兵制度より開拓を目的とした兵備のない殖民を増すよう主張、「今日、北門の守備一日も怠るべからざるを感ずると同時に、亦た政府の当局者、在野の政治家、就中国会議員其他国民一般が、爾今益々殖民的守備の点に注意」するよう呼びかけた。
 北門新報(明治二十九年四月一日付)社説は「本道の進歩と屯田兵」と題し、これまで果たしてきた屯田兵の役割を高く評価するが、師団ができれば屯田兵の増置は「無用にあらざるかを疑ふ」とし、「土地既に拓け、移民之に充ち、自治制将に布かれんとし、師団常備の兵既に設けらるゝの今時、何の要ありてか屯田兵の増設を待たん」と主張した。これには屯田用地にからむ利権問題も関わっていたようだ。
 こうした意見の根底には北海道移民の急増という現実がある。初の琴似兵村開設時の全道人口は一八万人弱だったが、日露戦争時には六・二倍の一一二万人になっていた。政府が保護を加え自由を束縛して移住をはからなくても、人は北海道に定住するようになってきた。二十二年に道南地方に施行された徴兵令は、二十九年渡島、後志、胆振、石狩の四カ国に拡大し、札幌に本籍を置く壮丁も徴兵の対象となり、その事務のため聯隊区司令部を置き、札幌徴兵署は五月七日より北水協会を仮事務室にして業務を始めた。三十一年にいたって徴兵令は千島を含める全道に及び、徴兵義務に関しては全国同等になったが、屯田兵の戸籍内にあるものは徴集免除で、道内移住者は転籍後五年間、千島の北端占守島転住者は三二歳まで徴集猶予とされた。
 日清戦争時、屯田兵の充員下令にもとづき臨時第七師団が編成されたが、徴兵令の拡大によって二十九年五月、常備の第七師団を設置して屯田兵司令部は第七師団司令部と改められ、月寒村に歩、砲、工兵からなる野戦独立隊が生まれた。この内、道内徴兵を歩兵に充て、砲工兵は道外徴兵で編成し、それに屯田兵が加わったのが七師団の内容で、三十二年にいたって独立歩兵隊を二五~二八の四個連隊に分割補充した。この師団本拠が旭川に位置することになり、三十三年から三十四年にかけ月寒村から移転、札幌には歩兵二十五聯隊と札幌聯隊区司令部だけが残った。北海道にこうした軍事専従者集団が誕生し常備されると、屯田兵の担う兵制上の役割は当然薄れ、徴兵による兵と招募による屯田兵が混在するのは〝軍事上不便尠カラズ〟と陸軍省内では受けとめられるようになった。

写真-6 屯田兵司令部(札幌繁栄図録)

 一方、殖民事情も大きく変わった。十九年から北海道全域にわたり殖民適地の調査が行われ、入殖させる地を選定、それを区画し、大地積を貸付け多数の農民を移住させ、未開地は急速に処分され、農牧場が次々にできていった。明治十、二十年代は札幌を基点に石狩川流域が開発された時期であり、屯田兵村の配置がその先導的役割を果たした。全道耕地面積は八年五二〇〇町歩余にすぎなかったが、三十七年には六五倍の三四万町歩にのぼり、人口増加率の一〇倍の速さで開墾が進んだことを物語っている。札幌周辺にはたして米ができるかどうか不安な時代は忘れ去られ、全道で二〇万石を上まわる収穫があり、全生産額に大きな比率を占めるようになっていく。さらに鉄道、道路、航路、通信施設が整うと、屯田兵の殖民的役割は相対的に低下せざるを得ない。特に特権的大土地占有を基本条件にした屯田兵制と民間主導の開墾事業は、好立地の土地を巡って矛盾対立を生じ、かえって北海道拓殖の進展を阻害する要因になりかねなくなってきた。
 もう一つ重要な問題となったのは、屯田兵制と地方制・住民自治制との整合性である。北海道では従来行政上の村を置き区画を定め、そこに戸長を任命し、総代を選出して協議にあたらせてきたが、屯田兵制とこうした地方制度はそぐわなかった。行政村の区画に関係なく兵村用地が設定されているから、一兵村の土地が数村にまたがり、行政村には一般住民と兵員家族が混在している。兵員と家族の戸籍はあくまでも戸長が取り扱い、給与地もそれぞれの戸長役場が管轄するとはいえ、権限はすべて中隊本部にあって、行政村が口を出す立場になかった。民費(今日の市民税に類似)はその村の住民である以上屯田兵からも徴せられるが、賦課の実権は戸長になく、兵村の運営に行政村は何ら関わることができなかった。戸長制は三十年代から区(今日の市のもとになった)や一、二級町村に改編し、変則的ではあるが自治権を持つ公共団体に移行する。さらに道会を置き選挙制度が施かれると、選挙被選挙権など公民権に関わる税負担の問題が生じ、屯田兵制を抜本的に改革し地方自治制と両立させるか、廃止して新しい制度の中に一体化するかが検討されたのである。
 こうした諸条件のもと、六年に始まる屯田兵制は廃止の方針に決し、三十二年の入地を最後に新規招募を停止し、三十七年四月には現役兵が皆無になった。札幌についてみれば二十二年の篠路兵村入地が招募の最後で、現役予備役は二十九年ですべて終わる。三十七年九月八日勅令第二〇二号の発布、即日施行によって屯田兵条例移住給与規則給与令等が廃止され、三〇年にわたる屯田兵制度はまったくなくなるのだが、日露戦争出征中のものは条例廃止後もそのまま従軍し、復員(戦死者あり)後が真の除隊となった。