ビューア該当ページ

二つの運動

12 ~ 15 / 915ページ
 近代都市の住民たらんとした札幌の人たちが、強く願い続けた自治権、参政権の獲得過程からまずみることにする。近代国家形成の過程で法体系の整備が進み、明治二十一年(一八八八)公布の市制町村制は地方と中央の関係を明らかにし、日本の地方制度に新しい時代を画することになった。これにより地方の有産者階層が支配的役割を果たす市町村が生み出され、国家統治の末端組織として強固に位置づけられたが、北海道はその適用除外地とされ、札幌に直ちに市制町村制は施行されなかった。また翌二十二年大日本帝国憲法、衆議院議員選挙法が公布され、待望の国会が開設されても、北海道の人たちにはその選挙被選挙権は与えられず、札幌は自治権、参政権の空白地になってしまった。
 地方制度として、郡区町村編制法と各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則にもとづく区戸長・総代人制が開拓使施政以来継承され、そこで「札幌区」と呼ばれるのは単なる行政区画で、区長は北海道庁の官吏であり、区役所は北海道庁の地方出先機関にすぎなかった。その実態については『市史』第二巻(六二八頁以下)、第七巻(一〇五三頁以下)に述べたので、本節はこうした変則状況を札幌の人たちはどのように克服しようとしたか、自治権、参政権の空白地からの脱却運動とその結実に至る経緯を取り上げる。
 帝国議会開設以来、札幌の人たちは自治権、参政権を要求する運動を続けたが、具体的な制度や機能、運動方法等で多岐にわたる意見が生じ、道内各地の運動家と協力関係を模索する中で、全道世論を一体化した自治制運動を組織するのははなはだ困難であった。そうしたいくつもの意見がやや集約され、運動の新しい段階をむかえたのは、明治二十六年(一八九三)十一月から十二月にかけての第五回帝国議会へ向けての請願行動だったといえる。札幌の請願は二派に分かれ、拓殖促進、北海道議会開設問題と複雑にからみ合いつつ展開された。
 一つは阿部宇之八(北海道毎日新聞社主)、久松義典(同主筆)、荘子斌(弁護士)等によるもので、北海道開拓の強力な推進は日本の経済、農村問題解決のいと口になるとし、総合的な拓殖政策立案機関の創設と、開拓の進展にともない「地方制度の要件、即ち北海道議会開設及区会総代会規則全廃等は緊急」であると主張した。そこで「本道の地方経済を整理し、且つ市町村自治の制度を施行し、以て人民に参政権を与へ、兼て自治思想を養成するは他の開拓的事業の拡張と共に挙行せさる可らさる最大急務なり」と訴えた。注意しなければならないのは、彼らが主張する市町村自治とは、全国一律の市制町村制の適用によるのではなく、「特別法を設けて、経費の負担、区域の分合を決し、戸口の疏密を察して、逐次に地方団体の組織を遂け、市町村会を開く」という、いわゆる特別自治制の要求であったから(道毎日 明26・12・2附録)、この運動を特別制派と呼ぶことができよう。
 もう一つの運動は松田学(前道庁官吏)、藪惣七(商業)、村上祐(新北門社)、中西六三郎(弁護士)等によるもので、対馬嘉三郎(商業)も考え方はこの派に近い。彼らは北海道拓殖調査会と地方議会の設置を主張したが、その地方議会は「単に府県会と同一の議会を開くに在」ったといわれ、前者の北海道議会案より機能を大きく制約したものだった(道毎日 明26・12・2附録)。また市町村制の要求を含まず、むしろ現行制度を温存させておき、道議会開設を優先させようとしたもので、北海道庁の権限を強化し拓殖の進展をめざしたから、自治権、参政権運動としては限界があった。この運動を道庁派と仮に呼んでおく。
 こうした両派の主張を調整し、札幌として運動の一本化ができないか仲介の努力がはらわれ、合同の意見交流の場も持たれたが、むしろ感情的対立が深まり調整は失敗に終わり、前者は久松・荘子が、後者は対馬・松田がそれぞれ出京し帝国議会への請願と活発な院外運動を行った。久松は「予の請願草案及ひ其運動は、安静平穏なる札幌社会の空気を攪乱したるものなり。之が為め党派角逐の思想を吹込みて、著実堅固なる実業家諸君に迄煩累を及ほしたるは、是れ予の菲才不徳に由らすんはあらす。今後の調停策は懸りて実業家諸君の肩上に在りとす。故に予は我罪を謝すると同時に、諸君に向て之を訴へんと欲す」(道毎日 明26・12・2附録)と呼びかけたが、以後の札幌政界形成にこの両派は大きな影響を及ぼすことになる。
 自治権、参政権を求める世論の盛り上がりは札幌に限ったことではない。小樽は人口で札幌を凌駕し経済力で札幌を包含していたから市町村自治の要求が強く、開拓使官有物払下事件以来の自由民権運動の伝統を持つ函館においても、道庁権限の縮小と住民自治の拡大を求める声は高かった。こうした世論を背景に第五回帝国議会では、立憲改進党が十一月二十九日(提出者加藤政之助、福田久松、橋本久太郎)、自由党が翌三十日(提出者百万梅治、工藤行幹)、ほぼ同内容の北海道議会法案を衆議院に提出したが、いずれも条文で市町村制にはふれていない。この点を加藤政之助は本会議で「町村ニ一定ノ法ヲ悉ク行フト云フコトデハナイ、行ハナイト云フ方ニ書イテアリマス」とし、市町村制は「問題以外ノ話」だと法案説明をしている(第五回帝国議会衆議院議事速記録 官報号外 明26・12・9)。
 政府はこれについて内務省の参事官都築馨六が意見を述べ、「地方ノ組織ヲ定メヤウト思ヒマスレバ、先ヅ町村ノ組織カラ始メナケレバナラヌ」との基本方針を示した。北海道における現行制度の欠陥を認め、新制度調査の必要性を表明したわけで、特別自治制を検討していることが背景にあった。したがって北海道議会開設には「町村ノ権限、町村ノ組織ガ定ッタ後ニ譲ッテモ敢テ晩クハアルマイ」と反対したのである(同前)。
 この議会は開院後三三日で解散してしまい、札幌の二請願は採択に至らず、両法案も成立をみなかったが、ここに至って市町村自治を求める世論の動向、政党の対応、政府の方針がそれぞれ明確になり、三十年区制に向けて動き出す基礎が固まったといえよう。なお第八回帝国議会においても北海道の市町村制につき議論されるが、内容としては第五回の延長線上にあり(第八回帝国議会衆議院議事速記録 官報号外 明28・1・20)、貴族院の大勢は自治尚早論で、道議会開設が拓殖事業に害になると説くほどだったという(道毎日 明25・2・23、24)。