大正十一年までの区制期に八回の定期選挙が行われ、いずれも補欠選挙が同時になされた。すなわち二回目は明治三十五年、三回三十八年、四回四十一年、五回四十四年、六回大正三年、七回六年、八回九年で、これにより選出された区会議員は表7のとおりである。その投票日は初回の日をそのまま継承したので、各回とも十一月三十日は三級、十二月一日は二級、十二月二日は一級選挙日である。議員数は初回から三回までが二四人で、四回から三〇人に改正された(各級一〇人)。定数は区制により人口五万人未満の区が二四人以下、五万人以上で三〇人以下と定められているが、札幌区の人口は明治三十五年に五万人、三回選挙時は六万人、四回選挙時に七万人を超えていた。そこで明治四十一年九月の区会で六人の増員を盛り込んだ区会議員定員規則を可決し、同年の選挙から適用した。以後区制末期まで変更はなく、市制移行により三六人となる。
表-7 区会議員一覧 |
回 | 選挙年 | 定数 | 議員名 | |||
3級 | 2級 | 1級 | 欠員補充(級) | |||
1 | 明治32 | 24人 | 谷七太郎* | 田中重兵衛 | 南部源蔵 | |
森源三 | 上野正* | 大島喜一郎* | ||||
対馬嘉三郎* | 大井上輝前* | 久慈勘吉 | ||||
足立民治 | 藤井民次郎 | 本間国蔵 | ||||
山崎孝太郎 | 西田守信* | 花村三千之助* | ||||
本郷嘉之助 | 嘉納久三郎 | 宇野季吉* | ||||
冨益頼道* | 伊藤辰造 | 冨所広吉 | ||||
笠原文平* | 宮沢文次郎* | 新田由平* | ||||
2 | 明治35 | 24 | 谷七太郎 | 後藤銈太郎 | 大井上輝前 | 助川貞二郎(3) |
土屋轍 | 安部腰次郎 | 大島六郎 | 村田不二三(3) | |||
花村三千之助 | 輿石太郎 | 五十嵐佐市 | 上野正(1) | |||
斉藤亨 | 吉田松太郎 | 安斉虎禧 | ||||
3 | 明治38 | 24 | 阿部久四郎 | 秋野幸三郎 | 奥泉安太郎 | 大竹敬助(3) |
助川貞二郎 | 遠藤俊 | 藪惣七 | 山形卯三郎(2) | |||
山崎孝太郎 | 奥山角三 | 真弓広美 | ||||
村田不二三 | 三島常磐 | 藤井民次郎 | ||||
4 | 明治41 | 30 | 阿由葉宗三郎 | 池内與惣吉 | 宮村朔三 | 佐藤貞太郎(3) |
塚島由太郎 | 藤沢栄蔵 | 永田巌 | 大竹敬助(3) | |||
関場不二彦 | 相沢元次郎 | 成宮多吉 | 小川二郎(3増員) | |||
助川貞二郎 | 佐々木源六 | 前田庄治郎 | 石井峰太郎(3増員) | |||
渡辺重令(2) | ||||||
安部腰次郎(2増員) | ||||||
高橋宗吉(2増員) | ||||||
松本丑之助(1増員) | ||||||
松尾留太郎(1増員) | ||||||
5 | 明治44 | 30 | 大竹敬助 | 隅土次郎 | 阿部幤治 | 野原勇助(3) |
一柳仲次郎 | 阿部称一郎 | 大滝甚太郎 | ||||
本郷嘉之助 | 三野昌平 | 五十嵐久助 | ||||
足立民治 | 奥山角三 | 藤井民次郎 | ||||
村田不二三 | 奥泉安太郎 | 榎本巌 | ||||
6 | 大正3 | 30 | 久保兵太郎 | 大島金蔵 | 松本菊次郎 | 高増孫治郎(3) |
向井次郎 | 川村音吉 | 計良翁助 | 安部腰次郎(3) | |||
中西八百吉 | 長谷川哲三郎 | 笠原文平 | 佐々木源六(1) | |||
阿由葉宗三郎 | 黒沢文三 | 前田庄治郎 | 斉藤亨(1) | |||
塩崎勝郎 | 吉岡佐一 | 三島常磐 | ||||
7 | 大正6 | 30 | 木下三四彦 | 吉田敬一 | 池内與惣吉 | 伊達翁記(1) |
村田不二三 | 吉田茂八 | 奥山角三 | ||||
大竹敬助 | 助川貞二郎 | 阿部与之助 | ||||
斉藤亨 | 塚島由太郎 | 村山太一郎 | ||||
長屋平太郎 | 奥泉安太郎 | 大滝甚太郎 | ||||
8 | 大正9 | 30 | 南部多三郎 | 佐藤善七 | 久保兵太郎 | 高岡熊雄(3) |
新開新太郎 | 関直右衛門 | 松本菊次郎 | 沢登源六(2) | |||
中西八百吉 | 坂岡末太郎 | 古谷辰四郎 | 斉藤亨(1) | |||
川崎繁実 | 計良翁助 | 伊達翁記 | ||||
山口保三郎 | 池田新三郎 | 坂本弥太郎 |
上段より得票順に記載.*印は3年で退任. |
初回に混乱をきたした選挙戦は、衆議院や道会議員の選挙、政党の変遷と関わって様変わりしていく。実業協会派は内部に反目を生じ、門戸を開放して同志会と改名するが、これに対立する勢力は有志派と呼ばれた。明治三十九年同志会が解散してからは、選挙毎に有志大会を開いて区会議員候補者を予選し、連合選挙事務所を設置して選挙戦に備えたが、ほぼ予選候補者が当選した。一方、旧同志会員の一部や、予選に入らなかった人たちが相提携して対立候補となる構図ができあがった。
大正三年、札幌で衆議院議員補欠選挙が行われ、政友会と同志会の激戦の余波が区会議員選挙にそのまま波及し、従来の構図を塗り変えることになる。すなわち政友会系は大正三年十一月十五日公友俱楽部(公友会)を設立し、六回選挙にあたり区議改選数一九人の独占をねらって一九人の候補者を立て、同志会系もまた実業同盟会によって一二人の候補者を立てた。結果はほぼ五分五分の議席を得て、以後両系併立の時代となるが、六回選挙を境に議員の世代交代がすすみ、新人の進出が目立つようになったが、両系に属さない単独候補の当選は困難になった。
区会議員の選挙権、被選挙権をもつ者は、地主や高額所得者といった一部の富裕層に限られたから、有権者数の拡大縮小は札幌の生産活動と直接結びつき、区民の経済力をそのまま反映したものといえる。初回選挙の有権者数で住民戸数を割ると、二二戸に一人の有権者がいたに過ぎず、人口割では一二八人に一人となる。有権者は回を重ねるごとに増加し、五回選挙(明治四十四年)において対戸数の割合が八戸に一人と最大になった。それが六回では九・九戸に一人と逆戻りするが、以後は徐々に回復に向かう。すなわち区民の土地所有と高額所得者の割合が増し、これにともない有権者の比率も伸張していったのである。仮に有権者と戸数の百分率からその動向をうかがえば表8となる。
表-8 区会議員選挙権者数 |
回 | 年 | 選挙権者数 | A/戸数×100 | |||
3級 | 2級 | 1級 | 計(A) | |||
1 | 明32 | 254人 | 51人 | 12人 | 317人 | 4.5 |
2 | 35 | 696 | 122 | 20 | 838 | 9.5 |
3 | 38 | ? | 141 | 34 | ? | ? |
4 | 41 | 1,008 | 173 | 42 | 1,223 | 10.8 |
5 | 44 | 1,501 | 335 | 72 | 1,908 | 12.5 |
6 | 大 3 | 1,533 | 380 | 92 | 2,005 | 10.1 |
7 | 6 | 1,438 | 365 | 94 | 1,897 | 11.2 |
8 | 9 | 1,803 | 372 | 53 | 2,228 | 11.6 |
区会への関心度をうかがわせる選挙の投票率につき、初回の結果(七一パーセント)は前に述べた。以後、回により五〇パーセント台に落ち込んだこともあるが、多くは七〇パーセント台で推移した。その内三級選挙の投票率が毎回最低で、四〇パーセント台のこともある。これは有権者数が多いためであろうが、この階層の区会に対する関わり方を示す数字と考えることもできよう。