表-2 札幌区の学齢児童数・学級数の推移 |
年度 | 学齢児童数 | 学級数 |
明33 | 5,662人 | 57 |
34 | 5,412 | 62 |
35 | 4,365 | 69 |
36 | 6,627 | 不明 |
37 | 6,510 | 78 |
38 | 6,589 | 83 |
39 | 7,417 | 88 |
40 | 7,871 | 94 |
41 | 8,262 | 108 |
42 | 8,926 | 118 |
43 | 10,136 | 149 |
44 | 10,050 | 167 |
45 | 9,755 | 182 |
大 2 | 10,620 | 179 |
3 | 11,982 | 171 |
4 | 13,044 | 176 |
5 | 13,766 | 181 |
6 | 14,357 | 194 |
7 | 14,957 | 204 |
8 | 14,037 | 211 |
9 | 15,832 | 219 |
10 | 17,445 | 232 |
1.各年度の学級数は尋常科と高等科の合計値。 2.明33~45年度は『文部省年報』,大2~8・10年度は「札幌区事務報告』,9年度は『札幌区統計一班』より作成。 |
これに拍車をかけたのが区外から札幌区内に通学する児童の存在で、明治三十九年には四三〇人に達していた(小樽新聞 明39・1・27)。同年一月、札幌区ではこれを制限するための方策を検討し、「区外児童収容方法」を制定した。これは区外の高等科の児童に対しては授業料を増徴し、尋常科の児童に対しては当該村からの教育事務の委託に加えて、札幌区の児童(尋常科)一人当たりの教育費相当額を徴収するという内容であった(明治三十九年区会議事録)。札幌村は尋常科児童の教育事務を委託し、同年四月から七五人の児童が正式に通学した。委託費は一人一学期に付き三円を徴収した(同前)。豊平村も同様に、同年四月から一二人の児童を委託した。
札幌区の区外児童の全般的な受け入れの実態は不明な点が多いが、「尋常五年以上他町村ヨリ入学児童調」は四十一年十一月時点のそれを浮き彫りにしている(札幌区役所 明治四十二年度予算資料)。この調査によると、札幌区内へ通学する児童は札幌村、豊平村、藻岩村、白石村、琴似村の五村からで、人数は合計七二人である。村別では札幌村が五〇人で全体の七割を占め、以下豊平村一三人、藻岩村五人、白石村三人、琴似村一人の順となっている。学校別では札幌女子尋常高等小学校が二九人で全体の四割を占め、以下創成高等小学校一九人、北九条尋常高等小学校一三人、創成尋常小学校六人、東尋常小学校五人の順である。
こうした学齢児童の増加に対応するために、札幌区では初等教育機関の新設や既設校の拡充などに力を注いだ。その推移を素描しておこう。最初に新設校を取り上げよう。
北九条尋常高等小学校は札幌区が区制施行後、初めて設置した初等教育機関である。同校の前身は僧侶の上守祐真が開いた私立上守学校で、三十年五月の創成尋常小学校第一分校の設置によって廃校となった(創成尋常小学校第一分校 沿革誌)。創成尋常小学校第一分校は「幼童鉄路ヲ横断シテ本校ニ通学スルノ危険ナル」(同前)という理由から設置され、校舎の所在地(北九西一)は「鉄道以北中央にして通学便利且土地開墾乾燥衛生道徳の妨害となるへき物も無」(道毎日 明34・1・8)い最良の立地条件を備えていた。三十四年四月には「在籍児童日ニ増加シ校舎ノ狭隘ヲ感ジ且ツ分校ハ教育制度ノ許サヾル」(北九条尋常高等小学校 沿革誌)という理由により創成尋常小学校から分離・独立し、同時に高等科を併置して北九条尋常高等小学校と改称した。
続いて、三十六年四月に設置したのが東尋常小学校である。同校には創成と豊水の両尋常小学校の児童の一部を収容した。同校は唱歌室や裁縫室を設備し、「区内既設の小学校と比較して総ての設計優等」(小樽新聞 明36・7・3)と評された。同校は、四十三年四月には高等科を併置し、東尋常高等小学校と改称した。また、四十二年十月には、同校生徒の一部が入学する東北尋常小学校を設置した。東北尋常小学校も大正六年四月に高等科を併置し、東北尋常高等小学校と改称した。大正八年九月には、この東北尋常高等小学校の一部と苗穂町、元村の児童を収容する苗穂尋常小学校を設置した(苗穂小学校 開校70年記念誌なえぼ)。
次に既設校を取り上げる。既設校は明治四十年三月の「第三次小学校令」中改正に伴い、新たに尋常科や高等科を併置して尋常高等小学校に改組したケースが目立っている。創成高等小学校は四十一年に尋常科を併置し、四十三年に西創成尋常高等小学校と改称した。創成尋常小学校は四十三年に高等科を併置して、中央創成尋常高等小学校と改称した。豊水尋常小学校は四十年四月に高等科を併置して、北九条尋常高等小学校の尋常科卒業生を収容した(豊水小学校 学校沿革史)。札幌女子尋常高等小学校のケースは例外で、三十三年九月に尋常科と高等科が分離・独立し、それぞれ札幌女子尋常小学校、札幌女子高等小学校と称した(道毎日 明33・9・22)。その後、三十七年六月には両校が併合して、再び札幌女子尋常高等小学校と改称した(大通小学校 学校沿革史)。四十三年四月、山鼻村と豊平町の一部が札幌区へ編入されたことに伴って、山鼻尋常高等小学校と豊平尋常高等小学校は同区へ移管された。
写真-2 公立中央創成尋常高等小学校6年卒業記念(明44)
写真-3 豊平尋常高等小学校(大2)
このように、明治末年には札幌区立の初等教育機関は東北尋常小学校を除き、高等科を併置した尋常高等小学校へと改組した。この措置は義務教育年限の六カ年修了後、上級学校への進学希望者が増加していた当時の札幌区の中等教育機関の設置状況を考え合わせれば、高等科をその「代替物」として位置づけようしていたことを意味する。また、創成高等小学校や創成尋常小学校のように単置校を廃止したことは、地方改良運動下の財政合理化を目的とした小学校の統廃合策と無関係ではないであろう。
さて、増加の一途をたどる学齢児童を就学させるためには、初等教育機関の新設だけで対処することは不可能である。学級数の増加による学校規模の拡大が不可欠である。一校当たりの学級定数は「第三次小学校令施行規則」では一二学級以下と規定されていたが、義務教育年限の延長に伴って一八学級以下と改められた。このような学級定数の制限は学校全体としての管理や訓育を重視したことによるものであった(日本近代教育百年史 第四巻)。札幌区立の小学校の学級数(尋常科と高等科の合計)は明治三十三年度では五七学級であったが(表2)、四十年度までは毎年五~七学級ずつ増加し、四十一年度から四十五年度までは義務教育年限延長という要因も加わって大幅に増加した。このように、学級数の大幅増加が可能であったのは函館、小樽の両区と比較して、本科正教員を一定数確保できたからである。四十二年に三区を教育視察した星菊太(北海道師範学校校長)の調査によると、札幌区の学級数に対する正教員の不足数は三人に過ぎなかった(小樽新聞 明42・11・23)。これに対して、函館区は三〇人、小樽区は二六人がそれぞれ不足していた(同前)。