ここでは北海道美術協会(道展)創立以来の中心メンバーで、運営に携わった今田敬一の自伝的美術史『北海道美術史』をもとに道展の時代を素描したい。
大正十四年十月に道展が結成される。北海石版所の二代目である本間紹夫の別荘胡蝶園で、北海タイムス記者竹内武夫、加藤悦郎、小樽の画家兼平英示が集まり、結成に至った。道展の成立をもって中央画壇・職業作家との交流が深まり、札幌の地域で美術は社会的な広がりをみせる。画風としては写実主義が中心で、特に北海道で最初の公募展であることに意味があった。
道展創立会員は、「日本画部」は、岩田華谷、菅原翠洲、白(つくも)青山、山内弥一郎、岡崎南田、平沼深雪、「洋画部」は、能勢真美、本間紹夫、山田正、山本菊太郎(改・菊造)、奈良岡昂、加藤悦郎、今田敬一、石野宣三、林竹治郎、澤枝重雄、升家謙三、石川確、中根孝治、三浦鮮治、谷吉二郎、中村善策、兼平英二(改・英示)、桝田誠一、近岡外次郎、池谷寅一、黒田山洋(酒谷小三郎)、天間正五郎、内山麓人、高橋北修、坂野孝児といったメンバーである。
今少し発足当時の道展の多彩なメンバーをみる。大正十五年九月八日から九月二十三日まで一四回にわたって連載された「美術の秋に彩管に親しむ人々」(北タイ)をみると、北大関係では今裕、中根孝治、西村真琴、佐々木望、札幌工業学校の桜井豊松、南画の岩田華谷、山内弥一郎、道庁を退職した岡崎南田、眼鏡屋の能勢真美、薬小間物店を経営し札幌洋画研究所を主宰する石川確、「店のことはかまってくれない」と妻に小言をいわれる「リリス」婦人洋装店の山本菊造、「愛嬢をモデル」にする裕福な本間紹夫、裸婦を描く病気がちの大塚謙三、札幌一中の教育者林竹治郎といった面々であり、東京美術学校出身者もいるが、市井のアマチュア画家たちが多く含まれていた。
苫名直子は道展結成時の十~二十代の若者が、同じ小学校区という地域で交流を深めて育って来たことを指摘する。能勢真美、大森滋、渋谷政雄、小川マリ、三岸好太郎らは北九条小学校。山田正、山本菊蔵、本間紹夫は中央創成小学校。小山昇と松島正幸は西創成小学校、といったぐあいである(北方のモダン)。三岸の友人の渋谷政雄は、小学校時代に偕楽園、りんご園、ポプラ並木と共に遊び回った思い出を語り、「三岸の土壌になったのは北大を中心にした緑の中ではないか」と戦後に回想している(三岸好太郎を語る〔座談会〕)。
会長に北海道庁長官土岐嘉平、副会長に後に北大医学部長となる今裕をいだく陣容を評して、吉田豪介は、道展は「画家としてアマチュア、教養人として第一級の大学教授を顧問格として組織内に、専門画家を招待者として組織の枠外に位置づけ」たとし、「リベラルな教養的、教育的サロン」となることを選択したとみる(北海道の美術史)。
大正十四年に定められた「北海道美術協会規約」の第二条には、「本会ハ本道ニ於ケル美術ノ向上普及ヲ図ルヲ以テ目的トス」とあり、第七条の事業内容としては、「一 北海道ニ於ケル美術運動、二 美術展覧会ノ開催、三 児童自由画展覧会」をあげている。
大正十四年から昭和十三年(第一四回展)まで会場は中島公園農業館で開かれるが、農業館には三〇〇点くらい二段掛で展示できるスペースがあったという。
第一回道展は十月五日から十八日まで開かれるが、入場料二〇銭、出品目録代五銭で、好天の日曜日には七~八〇〇人の入場者があった。道外在住の札幌関係者では、春陽会賞を受賞した三岸好太郎、春陽会会員の長谷川昇、岡田七蔵、俣野第四郎などがいた。
岡田七蔵は、明治四十三年に一四歳で上京して二科会を中心に中央の画壇で活躍し、道展発足当時、春陽会に属して「草土社風から文人趣味的「味」の世界へという流れに直面」していた(苫名直子 岡田七蔵の画業について)。俣野第四郎は、結核を悪化させる大正十三年のハルビン行きから帰国し、療養中の沼津から春陽会に出品していた頃である(俣野第四郎 人と芸術)。長谷川昇は、小寺健吉・工藤三郎と羊蹄画会を組織して、明治四十年と四十一年に小樽で展覧会を行うが、のち昭和九年七月に大雪山国立公園の写生を機に今井呉服店で個展を開く(長谷川昇 北海道展図録)。
道展の搬入点数は、大正十四年(第一回)五三六点、入選九二点、昭和五年(第六回)には一〇〇二点と大台に乗り、入選は一九四点となった。翌六年には、最高の一七九七点となり十四年まで一二〇〇点以上の搬入点数があるが、十五年度(第一六回)に六八四点と激減する。
表2は第五回(昭4)道展搬入調べであるが、洋画の出品者総数一八九人のうち札幌在住者が一一〇人で、四割を超える画家が札幌以外の在住であり、その中には地方作家の受賞者として、旭川の高橋北修や帯広の八鍬一郎らがいた。
人口一六万人(昭4)をこえる道都札幌が、道庁長官を会長にいただき全道的な道展を開催し、その審査による美術の価値を地方に付与する、文化の発信地としての役割を担うようになったといえよう。昭和二年から長官賞・市長賞、八年から北海道美術協会賞といった賞が定められる。
一方、昭和三年から澤枝重雄らが「蒼はアマチュア、玄は玄人で美校出身者を意味」する蒼玄社をつくり毎年公募展をおこなうが十年の第七回で消滅する。六年には、小樽新聞社が上野山清貢や岡田七蔵ら東京で活躍する美術家を集めて北海道美術家聯盟展を開催するが、二年で資金難のため解散する。第二回の北海道美術家聯盟展には、洋画の長谷川昇、上野山清貢、岡田七蔵、日本画では筆谷等観ぐらいしか「良心ある作品」はなかった(佐野四満美 本道美術界の一考察『北海道』昭8・2月号)。このことは、第一回北海道美術家聯盟展の一五〇〇円にのぼる赤字問題だけでなく、発表の場がある在京作家にとってコンスタントに北海道の展覧会に良質の作品を出品し続けること自体に無理があったためといえよう。したがって、札幌に住み、芸術だけで生計を立てている作家がほとんどいない昭和初期において、北海道在住のアマチュア画家と、中央で活躍する道出身者の招待という道展のコンセプトに、昭和十九年第二〇回まで、道展が連綿と北海道画壇の中心の位置にあり続けた秘密があるだろう。