[現代訳]

一 八月一日は激しい風雨になり前代未聞の洪水になりました。助右衛門が所持していた小牧村下川原と常田村の田畑が荒れ果ててしまいました。
一 田中宿流失問屋の当主(小田中)長之助が流死、当家では左太夫を除いて残らず流死しました。
一 海野宿は半分流失し土砂が流れ込みました。海禅寺村深井村も同じでした。下塩尻下村、中島、新屋、大日向、横沢久保、軽井沢、大庭も流失しました。
一 川中島、稲荷山塩崎流失、岡田には土砂が流入しましたがそのほかの一万石の領地は無事でした。
一 千曲川東の松代も被害を受け洪水になりました。
一 江戸も洪水になり五百羅漢まで水がついたといわれています。上州も洪水になり熊谷の土手は三カ所切れ、阿部豊後守様の御城下も被害を受けました。
一 小諸六供田町本町流失し、流死者は三四〇人、馬は一四ひき流され流れつぶれた家は二〇七軒にのぼりました。なお、小諸城下や旅人の被害はわかりません。本陣問屋・庄屋でも流死者がでました。
一 佐久郡は大災害となっています。
一 諏訪は無難でした。長久保・芦田の中山道では、望月宿に土砂が流入、そのほか田畑への被害がありましたが、宿々への被害はそれほどではありませんでした。
一 千曲川筋からの流死者は秋和の正福寺無縁塚を建てて埋葬するよう、上田藩主様がお指図しました。
 
以下、流死者等についての記述が続きますが、写真版の本文はここで終了しています。以下については〔解説〕で触れます。