真田氏は東信濃の小県(ちいさがた)郡の一角、真田(現上田市真田町長(おさ))を苗字の地とする武士であった。その名をあらわしたのは、昌幸の父幸隆(幸綱)が信濃へ侵攻してきた甲斐の武田信玄に仕えてからのことである。真田氏は外様ながら武田氏に重用された。幸隆は上野国吾妻(あがつま)郡の中心拠点岩櫃(ひわびつ)城の城代として活躍する。さらに昌幸は武田氏末期の天正八年(一五八〇)には上州沼田城を攻略する。武田氏の家臣としてではあるが、昌幸は小県に隣接する上州の吾妻郡から利根郡沼田にかけてという上州北部一帯の地を、実質的な支配領域としつつあったのである。
ところが、天正十年(一五八二)三月、武田勝頼は織田信長に滅ぼされ、信濃など旧武田領は信長の重臣に分け与えられた。北信濃四郡(高井・水内・更級・埴科)は森長可(ながよし)に、東信濃の佐久・小県の二郡は上州と併せて滝川一益(かずます)が領するといった具合であった。このとき昌幸は滝川の前橋城に出仕し、次男信繁(幸村)を人質に出してもいた。しかし、六月に信長が本能寺の変で倒れ、森、滝川らは追い払われてしまう。こうして無主状態となった信濃や甲斐は、周辺の有力大名、上杉・北条・徳川の争奪の地と化した。
昌幸はこの混乱を乗り切って、従来からの勢力圏であった吾妻・沼田領を再び確保しただけでなく、元来の本拠地小県郡全域(上田小県地方)をも手中に収めたのだった。北信濃四郡は、戦国期には「川中島」とも「奥郡」とも総称され、武田信玄・上杉謙信が争奪戦をくり返したことで有名な地であるが、ここは信長横死直後の六月中に謙信の後継者上杉景勝が、ほぼ掌握した。
真田昌幸は、小県へも侵入した上杉に一旦は従った後、七月には佐久、小県へと軍勢を進めてきた北条氏直に従った。このような動きは真田氏だけでなく、周辺の中小領主もほとんど同じであった。しかし、九月末には徳川家康の意を受けた佐久の依田信蕃(のぶしげ)らの勧誘を受け入れ、家康に従属する。このおり徳川方は、滝川一益の人質に出されていた信繁(幸村)の身柄を確保しており、昌幸を鞍替えさせる工作の材料として、文字通り人質として使ったことが分かってきた。ともかくも、真田の帰属を喜んだ家康は、昌幸に「当知行」つまり現支配地安堵(確認・保証)のほか、上州の箕輪(みのわ)領、甲州で二千貫、及び諏訪郡を給するとの証文を与えている。昌幸は早速、依田信蕃を助けて、佐久の北条方に攻撃をしかけている。
ところが、そのわずか一ヵ月後の十月末には、甲信の支配をめぐって激しく争っていた北条・徳川間の和議が成立する。しかも、その講和条件は、真田領の上州吾妻・沼田と北条勢力下の佐久郡・甲州都留(つる)郡とを交換し、家康の娘を北条氏直に嫁がせるというものだった。つまり、甲斐・信濃は徳川に、上野は北条にという国分け協定である。だがこれも、「手柄次第」つまり、その実現は腕次第というものであり、佐久においても徳川方に頑強に抵抗する在地勢力も多かった。
家康も昌幸に対して、吾妻・沼田を引き渡せと、すぐには言い出せなかった。昌幸は家康から現有地のほかは全く空手形同様の宛行状をもらっただけであった。その上こんな話ではとても納得はできない。しかし、昌幸は、家康への不信感を抱きつつも、引き続き徳川方として動いていた。
<史料解説>
「真田昌幸所用具足」 (啄木(たくぼく)糸威(おどし)伊予札(ざね)胴具足) 柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管
昌幸の家臣であった河野清右衛門が戦功により昌幸から拝領したものと伝える。清右衛門は昌幸が紀州高野山へ流されたとき、随行した十六人の家臣の一人であった。佩楯(はいだて)に大きく真田家の定紋六連銭(六文銭)紋が描かれている。胸板中央は洲浜(すはま)でこれも真田氏の家紋。啄木糸威とは札板を連結する糸(紐)が白黒のまだらで、きつつきの胸毛の模様に似ているところからきている。
<史料解説>