天正十八年(一五九〇)七月の小田原の役終了と同時に、秀吉の命で家康は北条氏の遺領関東へ移封となった。そのため、上杉景勝領となっていた北信濃四郡を除く、家康配下の信濃の諸領主は根こそぎ関東へ移されることになる。これに対し、天正十四年に秀吉の命で小笠原・木曽とともに家康に返されたはずの真田昌幸だけは、そのまま上田にとどまり引き続き小県郡一円を支配し、問題の上州沼田領も旧来の形に復してそっくり与えられた。真田領はここに確定することとなる。

 秀吉は関東における井伊直政・本多忠勝など、家康の重臣の知行割りに介入してもおり、これは明らかに秀吉の指示によるものとみてよい。秀吉の意向を伝えられた家康が、天正十八年七月二十九日に出した書状の一節に「真田の儀、重ねて成瀬伊賀守を以って御諚を仰せ下され、忝(かたじけなく)く存じ奉り候事」とある。これは真田の件については、成瀬を使者として仰せいただいた「御諚」つまり、(秀吉の)御命令を承知いたしました、ということである。これ以前から秀吉は昌幸を実質的には直臣扱いしていたのだが、沼田名胡桃の件から北条氏討伐に至ったという経過もあり、昌幸の身柄を名実ともに自分の直臣とするとともに、いったん北条領とした沼田真田に返すことを、家康に認めさせたものとみて間違いあるまい。沼田領については前にみたように前年十一月の時点で既に返してやる旨を昌幸に伝えていたものでもあった(写真)。もっとも上州沼田領は昌幸の長男信幸が、父の上田領小県郡)とは独立した形で支配を展開することになる。しかし、信幸についても、これ以後は父昌幸と同様、秀吉の直臣扱いとしたことは、その後の伏見城普請への動員などにあたって、家康を介することなく信幸宛てに豊臣政権から直接の指示が出ていることからも明らかだろう。

 家康の配下として信濃から関東へ移された領主は、小諸の依田(芦田・松平)氏は上野藤岡(群県)へ、松本小笠原氏は下総古河(茨城)へ、諏訪諏訪氏は武蔵奈良梨(埼玉県)へ、というように在地性を奪われて遠隔の地へ移っただけでなく、依田が三万石、小笠原が三万石、諏訪が一万石程度と、所領高も信州での半分以下に減らされているものが多い。井伊直政十二万石、本多忠勝十万石など、徳川上層譜代を格段の大身に取り立てた事実と対照的である。もっとも知行高の大きさは、合戦や築城などに動員される軍役量の基準となるので、多いほどよいとは一概には言い切れない面もある。しかし、信濃出身の諸将が明らかに冷遇されたことに違いはあるまい。これと比べ真田氏は秀吉の裁量により優遇されたものだった。昌幸は秀吉に臣従した家康の家臣、いわゆる「又家来・またもの」ではなく、天下人秀吉の直臣であることを誇りにしてもいたという。

真田信之(信幸)画像
真田信之信幸)画像

<史料解説>

真田信之信幸)画像」   真田宝物館蔵

 衣冠束帯姿の信之像。右手には扇子を持っている。なお、慶長六年以降は、一部例外もあるが、信幸は「幸」の字を「之」に改めている。