昆布と採取用具の図 「蝦夷島奇観」
東蝦夷地の直轄以来、箱館を訪れた幕吏もようやく多くなり、そのなかには文章、絵画をよくする者もあって、いろいろな方面からこの地の実情を調査し、記録されたものも少なくない。寛政10(1798)年に蝦夷地入りした村上島之丞(志摩之允)は本名を秦檍丸といい、伊勢の神職の子で地理、風俗の学に長じ、絵もよくした。松平越中守に見いだされて幕府に仕え、数回におよぶ蝦夷地往来の見聞を『蝦夷島奇観』『東蝦夷地名考』『蝦夷産業図説』等に著わし、とくに『蝦夷島奇観』およびその付録には、寛政年間の箱館が詳細に記録され、貞治の碑も彼によって再発見され紹介された(同碑については享和3年にも、わざわざ単板で印行している)。当時の箱館の全景、亀田番所、市街図、風俗、尻沢辺出土の土石器など、島之丞が記録した成果は、比類なきものとして、往時を知る唯一の資料とされる。市立函館図書館には以上のほか、『佐竹候箱館七居浜操練図』など数点が所蔵されている。箱館付近に漆を植えたのも彼の功労といわれる。文化5年江戸で没した。間宮林蔵はそのまな弟子であり、ゴロウニンが感心したという通訳村上貞助(秦貞廉)は、彼の養子である。林蔵は島之丞から地理学を習い、寛政12年島之丞に従って蝦夷地に渡り、貞助も林蔵と協力して島之丞の学風を残している。
また、谷元旦(文晁の弟)は寛政11年、幕命により蝦夷地の薬草を調査に来た奥詰医師渋江長伯に随行し、その薬草の写生図、ならびに風土、人物、器用、産物など詳細に写生した。この蝦夷草木生図は種類数百種におよび、長伯の記録とともに本草家に珍重され、植物学界に稗益した。元旦は、ほかに紀行文『蝦夷紀行』をまとめ、箱館を「富饒の湊」と書いている。
伊能忠敬
わが国最初の実測地図作製者である伊能忠敬は、寛政12年、東蝦夷地沿岸測量を行うこととなり、5月28日まず箱館山に登って測量が開始された。これが蝦夷地測量の最初であり、測量日記『啓行策略』がある。
箱館奉行羽太正養は文才に富み、『休明光記』9巻を著わして当代の史実を明らかにしたほか、多くの俳句を残し、雇医師新楽閑叟がこれを集めて『蝦夷俳諧歌仙』と名付けている。また正養をとりまく人々もすぐれた学究が多く、さきに教育において述べた馬場正通は、蝦夷地に通用させる新銭について研究し、綿密な造幣策をのこし、正養が蝦夷地経営の必要を切言した『辺策私弁』は、実は正通の『辺策発朦』に加筆したものであったという。その他、正通には蝦夷地経営に対する卓越した意見を盛った『長夜余論』、詩文や書簡を収めた『万木雑稿』など、文学者として恥ずかしからぬものがあった。
享和3(1803)年羽太正養に従って東蝦夷地国後まで行き、和歌を配してきわめてうるわしい文章の行程記『蝦夷(えぞ)の島踏(しまぶみ)』を著した福居芳麿は、縢知文ともいい、『東夷周覧』には箱館の地理、風俗誌を書きつづって往昔をしのばせるものがある。
蝦夷地探検者として有名な松浦武四郎が、弘化2(1845)年はじめて蝦夷地に渡り、箱館の和賀屋孫兵衛の手代という名目で、蝦夷地各地を探訪してまとめたのが『蝦夷日誌』である。これには箱館市中ならびに海岸について詳述されている。武四郎はその後数次にわたって蝦夷地を調査し、数多くの著述もあるが、箱館については『箱館道中名所寿語六』『箱館往来』があり、また『蝦夷漫画』には「箱館湊眺望」および「七重浜眺望之図」などがある。
松浦武四郎
函館港総図 「蝦夷日誌」より