続豊治
時たまたま奉行堀利熙は帰府に際し、これに試乗して江戸に帰ったところ、船体はすこぶる堅牢で速力もまた早く、「暴風雨等も乗廻し候処、堅牢の造船、別して心得方にも相成り申し候」と、堀利熙は村垣範正に書き送っている。同5年また同型の船を造り、6年10月に出来あがり亀田丸と名付け、竹内保徳がこれに乗って江戸に帰った。これよりさき、幕府は伊豆国で造ったスクーネル型船を、郡名をとって君沢形と唱えていたので、この箱館で造った新船も君沢形と呼ばせていたが、箱館の新造船は2本檣であるのは君沢形に似ているが、その構造は異なるところが多く、かつ性能もはるかに勝っているため、稟請の上、特に「箱館形」と呼ぶことにした。事実、その堅牢さにおいて、また速力において、当時この形に勝るものがなく、千島、樺太はもちろん長崎、黒龍江などにまで航海し、当時の造船の模範と称された。豊治はまた万延元年命を奉じて和洋折中の船を造り、翌文久元年、工をおえたが、これを豊治丸と名付け、専ら津軽海峡の渡航に用いられた。同年更にスルップ型軍艦建造の計画があったが、諸種の事情から中止のやむなきに至った。以上のようにその造船の数こそ少なかったが、しかし全く外国人の手を借りず、優秀な西洋型の船舶を造ることができたのは、日本の造船史上まさに特筆すべきことである。
民間の造船では辻松之丞、島野市郎治らの造船所があって、日本形船の製造および修繕に従事していたが、なかでも辻造船所はやや整備され、官船箱館丸、亀田丸などの製造に際しては、松之丞もこれを助け、これによって技術の進歩を促したといわれている。