造船

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 すなわち造船については、安政元年12月、竹内、堀両奉行は、奉行所傭船として蒸汽船の下げ渡しを申請したところ、幕府は、かつてロシア人プチャーチン一行が、伊豆国君沢郡戸田村で製したスクーネル型に倣って製造した3隻の船のうち2隻を交付するから、これを参考にして箱館において製造するようにとの指令があった。しかしこれを待っていたのでは、いたずらに期日がおくれてしまうばかりなので、箱館入港の外国船を模倣してまず1隻を新造することにし、同3年奉行は幕府に申請のうえ、船匠続豊治に命じて作業に当たらせた。豊治は高田屋が全盛の時その造船所に招かれて箱館に移住し、築島に居住して造船に従事、また関東、京摂の諸国を歴遊してその術を究めた、非凡な名匠であった。命を受けた豊治は外国船が箱館に入港するごとに、吏員の従僕となって外国船に出入し、詳しくその構造を視察して製法を会得し、辻松之丞造船所で、和洋折中の短艇2隻を安政3年6月までに完成して大いにその技量が認められ、船大工頭取を命じられた。次いでスクーネル型船の製造に着手したが、この時の船材は主として箱館六箇場所から切り出したものを使用し、同4年11月に竣成した。これが日本において外国人の手を借りずに西洋型船を製造したそもそもの最初であり、伺いのうえ箱館丸と名付けた。

続豊治

 時たまたま奉行堀利熙は帰府に際し、これに試乗して江戸に帰ったところ、船体はすこぶる堅牢で速力もまた早く、「暴風雨等も乗廻し候処、堅牢の造船、別して心得方にも相成り申し候」と、堀利熙村垣範正に書き送っている。同5年また同型の船を造り、6年10月に出来あがり亀田丸と名付け、竹内保徳がこれに乗って江戸に帰った。これよりさき、幕府は伊豆国で造ったスクーネル型船を、郡名をとって君沢形と唱えていたので、この箱館で造った新船も君沢形と呼ばせていたが、箱館の新造船は2本檣であるのは君沢形に似ているが、その構造は異なるところが多く、かつ性能もはるかに勝っているため、稟請の上、特に「箱館形」と呼ぶことにした。事実、その堅牢さにおいて、また速力において、当時この形に勝るものがなく、千島樺太はもちろん長崎、黒龍江などにまで航海し、当時の造船の模範と称された。豊治はまた万延元年命を奉じて和洋折中の船を造り、翌文久元年、工をおえたが、これを豊治丸と名付け、専ら津軽海峡の渡航に用いられた。同年更にスルップ型軍艦建造の計画があったが、諸種の事情から中止のやむなきに至った。以上のようにその造船の数こそ少なかったが、しかし全く外国人の手を借りず、優秀な西洋型の船舶を造ることができたのは、日本の造船史上まさに特筆すべきことである。
 民間の造船では辻松之丞島野市郎治らの造船所があって、日本形船の製造および修繕に従事していたが、なかでも辻造船所はやや整備され、官船箱館丸亀田丸などの製造に際しては、松之丞もこれを助け、これによって技術の進歩を促したといわれている。