箱館府の廃止時期

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 次に箱館府廃止時期の問題であるが、「太政官日誌」には明治2年7月17日に江戸大坂京都以外の「府」はすべて「県」と改称する旨の布告と、24日に度会、甲斐、奈良3府を県とし、箱館府は廃止する旨の布告が次の通り載せられている。
 
 ○三府以外ノ諸府廃止ノ事(明治二年七月十七日)
   御布告書写
  今度御改正ニ付、京都、東京、大阪三府ノ外諸府被廃、総テ県ニ被仰付候事
 ○箱館府廃止ノ事(明治二年七月二十四日)
    箱館
  其府被廃候事
 ○度会、甲斐、奈良三府県ト改称ノ事(明治二年七月二十四日)
   御達書写
      度会府
  其府、自今度会県ト可称事
      甲斐府
  同断、甲斐県ト可称事
      奈良府
  同断、奈良県ト可称事
        (「太政官日誌」『維新日誌』)
 
 ところが江戸大坂京都、度会、甲斐、奈良、箱館以外の府は、これ以前に県に改称されていることが表1-3により確認できる。
表1-3 裁判所および府県設置状況表
裁判所以前の
名    称
設置
年月日
裁判所名設置
年月日
初 代 の 総 督
( 前職及び兼務等)
府と改称
年月日
府の
名称
初 代 の
知 府 事
県と改称
年月日
県の
名称
初 代 の
県 知 事
備    考
明治明治 明治明治
大坂鎮台1.1.22大 坂1.1.27醍醐忠順(鎮台から)1.5.2大 坂醍醐忠順
兵庫鎮台1.1.22兵 庫1.2.2東久世通禧(鎮台から)1.5.23兵 庫伊藤博文
慶応長 崎1.2.2沢宣嘉(九州鏡撫総督から)1.5.4長 崎沢宣嘉2.6.20長 崎
京都市中取締3.12.13京 都1.2.19万里小路博房(制度事務局輔から)1.閏4.25京 都長谷信篤
大 津1.3.7長谷信篤(議定兼勤)1.閏4.25大 津辻維岳5.1.19 滋賀県となる
横 浜1.3.19東久世通禧(兵庫から)1.6.17神奈川東久世通禧1.9.21神奈川寺島宗則
改称 神奈川 1.4.20
箱 館1.4.12仁和寺宮嘉彰親王のち清水谷公考1.閏4.24箱 館2.7.24 箱館府廃止のみ布告
笠 松1.4.18大原重徳(参与兼勤)1.閏4.25笠 松田内盛徳4.11.22 岐阜県となる
新 潟1.4.19四条隆平(北陸道鎮撫副総督兼務)1.5.29越 後※府再置2.2.82.7.27水 原―――┬―――――――3.3.7 新潟県となる
改称1.9.21   新 潟2.2.22新 潟     ――┘    
明治府中但馬1.4.19西園寺公望(山陰道鎮撫総督兼務)※公望は任に赴かず、名のみ1.閏4.28久美浜伊王野坦※但馬を兼管す(4.11.22豊
同県へ、9.8.21 京都府へ)
江戸市中取締1.4.211.5.12江 戸烏丸光徳
改称1.7.17   東 京
江戸鎮台1.5.19 ※同時に寺社・市政・民政の3裁判所を設置(旧幕の寺社、町、勘定奉行を引き継ぐもの)
佐 渡1.4.24滋野井公寿1.閏4.21佐渡鎮撫使とする1.9.2佐 渡井上馨2.2.22 廃止、越後府へ
三 河1.4.29平松時厚(参与兼勤)1.6.9三 河長岡恂2.6.24 廃止、伊那県へ
1.閏4.25日 田松方正義4.11.14 大分県となる
1.閏4.25富 高木村貞通1.8.17 廃止、日田県へ
1.閏4.25富 岡佐々木高行1.6.10 天草県と改称
1.5.17倉 敷内海利貞4.11.15 深津県となる
大和鎮台1.1.21※2.1廃止1.7.29奈 良園池公静1.5.19奈 良春日仲襄2.7.24 奈良府を県と改称
1.6.2高 山梅村準4.11.20 筑摩県となる
1.6.4真 岡鍋島貞幹2.7.20 廃止、日光県へ
1.6.17岩 鼻大音厚龍4.10.28 群馬県となる
1.6.22  小河一敏
1.6.29韮 山江川尚武4.11.14 足柄県となる
1.7.6度 会橋本実梁2.7.24度 会9.4.18 三重県へ
1.7.27柏 崎四条隆平2.2.22 廃止、越後府へ
1.8.2伊 那北小路俊昌4.11.20 筑摩県となる
┌―1.9.4府 中赤松成充
1.10.28甲 斐滋野井公寿1.9.4市 川成沢公直2.7.24 甲斐府を謙と改称
└―1.9.4石 和石田広和
2.2.23日 光4.11.14 栃木県へ

 17日の布告は江戸以下の7府に対する概括的な法令、24日の布告は実際的な法令ということが出来ると思う。しかし、箱館府を箱館県とする旨の布告はみあたらない。
 一方、7月8日の職員令により中央政府の機構改革が行われ(各官を各省と改称)、蝦夷地の開拓を担当する「開拓使」が中央に於いて各省と同列の機関として設置され、箱館府が廃止された24日には箱館府知事の清水谷公考が開拓使次官に発令されている。このことからみて、箱館府はその他の府とは異なって県と改称される事なく、開拓使へ吸収されるべきものと考えられていたようである。しかし、この考え方は政府内部でも徹底されてはいなかったらしく、大蔵省は箱館での贋金整理のため北代忠吉という係官を派遣する旨の達書の宛先を「箱館府」としながら、「今般箱館府被廃県ニ御改相成候処、右ハ至急彼地へ御布告ノ儀勿論ト存候ヘドモ万一陸路ヲ以被仰達候飛脚未タ彼地ヘ着到不致内、今般蒸気船便ヲ以致出張候当省北代忠吉ヘ頃日御下ケ相成候彼県御宛ノ御布告文面ニ不都合ヲ生シ可申、左候時ハ如何相心得可然哉、(外務省ヨリ弁官へ掛合 二年七月二十四日)」と、箱館府は廃止され「県」になったと聞いており、至急箱館へその旨布告をしていることと思うが、陸路を行く飛脚便が着く前に、北代忠吉が蒸気船で箱館に着いてしまうと、布告文の宛名に混乱が生じてしまうが、どのように対処していただけますかとの問い合わせが太政官へ行っている。これに対し「得能恭之助岩村左内、箱館県参事被仰付、彼地ノ目的相立金穀取調候趣ニ付、同人ヘ御引合セ可有之、尤岩村ハ不日発程ノ筈、箱館府ハ県ニ改候書付ハ、追テ為持可差出候」と、箱館府は「県」になった旨を箱館県参事に任命した岩村左内にその布告書を持参させる予定であると太政官は回答したが、翌25日には「三府ノ外諸府既ニ廃セラレ候故箱館ノ儀県ニ相成、先般相達面ニモ相認候処、同所モ蝦夷開拓ノ支配所ニ相成候様、即今御決議ニテ、未タ何等ノ名称モ不相立候故、此旨至急相達シ申度如斯候也」と、先に3府以外は廃止になり箱館も「県」になったと回答したが、箱館蝦夷開拓(開拓使)の支配下に入るので、まだ名称さえも未決定であり、早急に決定したいと訂正しているほどで(『法規分類大全』貨幣2)、箱館を統括する行政機関名については、太政官さえも混乱している状態であった。開拓使が中央行政機関で、箱館府が地方行政機関であったことが混乱を増幅させた一因と思うが、制度が整備されておれば、箱館府を廃止して清水谷箱館府知事を開拓使次官に任じた7月24日に、旧箱館府残務御用係等が任命され、開拓使が蝦夷地で実務を開始するまで諸務を取扱うようにとの達書等が出されて、このような混乱は生じなかったであろう。
 そこで、次に現地箱館箱館府での対応についてまとめてみる。
 7月17日(20日と誤記されている)付の3府以外は県とする旨の先の布告が箱館府に伝えられると、8月25日、その布告の次に「就ては、箱館府も已来箱館県と相改唱候事」(明治2己巳年従7月至9月「函府御沙汰留」)と付記して庁内を回達の上、市在に布告した。また翌26日には「已来箱館ハ県と相唱候趣意の御書簡各国岡士へ御遣相成候事」(明治2年「己巳日記」)と各国領事へも県と改称になった旨を通知し、27日には「伊太利国岡士より、已来箱館県と相改まり候御書簡の答書差出、訳の上長谷部へ差出候事」と同日記には記されている通り、イタリア領事から「箱館県」となったことを了解する書簡さえも届けられていたのである。つまり箱館では、7月17日の布告をもって箱館府は廃止され、箱館県となったと理解し、開拓使長官一行が箱館にやってくるまで箱館では箱館府は「箱館県」として機能し、多数の箱館県名の文書を残すこととなったのである。もっとも典型的な文書を次に紹介しておく。
 
                  山岡誠一郎
  弁務助勤申付候事
       巳九月       箱館
                  粟津勝之助
  裁判所玄関番伝達申付候事
       巳九月       箱館
  右ノ通致布告候也
     九月五日 議事局
          庶務局中
          外国局中
          会計局中
          刑法局中
          訳官中
          沖ノ口掛中
          病院掛中
  追て留より返却ノ事     (明治二己巳年従七月至九月「函府御沙汰留」)
 
 また行政庁としての「裁判所」も当然そのまま存続し、9月25日に東久世開拓使長官以下の開拓使官吏が箱館港に入り、30日に箱館開拓使出張所の看板を掲げるまで存続した。つまり、30日には
 
                      裁判所
  今般開拓使出張所ト相改メ候条、此旨相達候事
       巳九月             開拓使
  右ノ通御布告有之候間、此段及御達候也
        九月晦日     庶務掛
        農政掛
        金穀掛
        外務掛    御中
        沖の口
        記録掛                     (明治八年「開公」五八二一)
 
 と「裁判所」を「開拓使出張所」とする旨の布達がなされ、明治元年4月12日箱館裁判所が設置されて以来始めて「裁判所」なる名称が消滅することとなり、すべてが開拓使へ引き継がれたのである。北海道(明治2年8月15日蝦夷地を改称)開拓を主務とする中央行政機関「開拓使」に、地方行政機関として位置付けられていた箱館府の業務も吸収されたのである。
 この箱館府と箱館県の問題は、その後開拓使の内部でも問題になったようで、開拓使東京出張所の問い合わせに対して函館支庁の主任官杉浦誠は次のように回答している。
 
  函館県或ハ当府トノ文字有之、不明了ニ付調査可申進旨云々、函第一五八号ヲ以被申越、致領承候、右書類ノ義は、旧函館府ヨリ引継来り候書類写取リ候ヘハ、因ヨリ来歴等ノ義ハ碇ト領知不致候得共、己巳七月十七日御布告、并同月二十四日函館府ヘ御達ニ依リ、本使官員当港到着ノ日、即チ同年九月二十四(五)日、其後事務引継迄ノ際、当時ノ官員於テ府ヲ県ト改書致シ候事ニ可有之候
     仍テ別紙写相副差進候条、右ニテ御承認有之度此段及回報候也
          明治八年四月二十七日       杉浦誠
                         (明治八年「開公」五八二一)
 
 つまり確答は出来ないがと断りながら、箱館に3府以外を県と改称する布告が届いた時点から開拓使に引き継がれるまでの約1か月間箱館には箱館県が存在していたことを認めているのである。
 これらの経緯を概表にしてみると表1-4のようになる。
 
 表1-4 箱館裁判所、箱館府、箱舘県及び開拓使関係表
年月日
行政機関の創置・改廃
設置行政庁名
法令上
箱館での実態
法令上
箱館での実態
明治1.4.12
箱館裁判所設置箱館裁判所
閏4.24
箱館府と改称
5.1
箱館裁判所設置箱館裁判所
7.17
箱館府と改称箱館府裁判所
2.7.8
開拓使設置
7.17
3府以外の府を県とする
7.24
箱館府廃止 注
8.25
箱館県と改称箱館県裁判所
 
9.30
 
開拓使出張所開設
開拓使出張所開設
(箱館県裁判所を
引継ぐ)
3.2.18
樺太開拓使設置
※これまでの開拓使を北海道開拓使と称す
4.8.8
両開拓使合併

法制が整備された段階では、廃止された役所の残務取扱者が任命され、新たに置かれた役所が機能するまで(開庁)はこの残務取扱者がその間の事務を担当する事となっている。
 開拓使が廃止され3県が設置された際の例
  明治15年2月8日開拓使廃止、3県設置の大政官布告
   2月9日願伺届等宛名布達(旧開拓使残務御用係有竹裕宛…函館県大書記官に任命された有竹裕が開拓使残務御用係を勧める旨の布達)
   3月11日3月16日開庁の旨布達(函館県布達甲第1号)