開港による市街の二分化

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幕末の都市形成構造図

 明治期への都市としての連続性と都市形態の変容といった非連続的な面とを持ち合わせた函館の都市形成を考える際に図4-1のとおり、幕末での箱館開港は重要なポイントとなることは言うまでもあるまい。
 函館は開港地として、再び幕府の直轄地となり箱館奉行が再置されることになった。このため外国人が来函することが考えられ、もし外国人が箱館山に登り箱館市街を見下ろしたならば市街の実態をことごとく把握されるばかりか、役所や役宅の様子まで見透かされてしまうことを警戒してか奉行所を亀田地区に移転することになった(「蝦夷地開拓諸御書付諸伺書類」『新撰北海道史』史料1)。この奉行所と外国人との一定の距離を保つ意識はペリーが当初開港を要求した浦賀が幕府側の反対により伊豆の下田に決定した背景、つまり江戸からほどほどに遠くてしかも幕府のコントロールがきく場所という距離の論理と整合するのではないかと思われる。そして、奉行所移転のために五稜郭が築造されることになった。ここに当時の都市形態の特徴と考えられる都市の二分化が見られ、市街地の西部地区と五稜郭地区とに分けられることになったのである。
 さて、開港後の西部地区は安政4(1857)年には大工町や尻沢辺山ノ上町の拝借地の願いが増えており、その願人は大工町では地蔵町、山ノ上では大町の住人が多かった(安政4巳年12月「箱館町拝借地元帳」道文蔵)。このように拝借地の願いが増えていることから、市街地の拡がりが想定できるし、安政5(1858)年には地蔵町の北隅にあった桝形という幕府前直轄時代に設けられた旧番所跡が取払われた。これと関連するがごとく同年の拝借地願いに鶴岡町通りや地蔵町裏通りが多く見られ、地蔵町の住人が願人として多くを占めていた(安政5午年12月「箱館拝借地元帳」道文蔵)。そして、当時の相対的土地評価については表4-2より類推できる。
 

表4-2 文久元年市中地面賃貸料  (1坪/年)
町名
150
125
120
110
100
90
80
70
60
50
45
35
30
25
大町
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
内澗町
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大工町
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
地蔵町
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鶴岡町
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
弁天町
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大黒町
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山ノ上町
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神明町
仲町
鰪澗町
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

文久元年「各国書翰留」(北海道立文書館蔵)より作成

 
 また、元治元(1864)年頃には鶴岡町に多くの私有地化がみられ、海面埋立の増加などによる町家地区の広がりを知ることができる(自元治元年至同2年「沽券地御用留」道文蔵)。
 さて、もう一方の五稜郭周辺では「亀田に五稜郭の築造あるや、其附近に官舎を建て郷宿、料理店等も開業し、本町通りと称する町も出来たり。亀田道路に沿い市中の遊女屋営業者資を出し、貸家を建てしか、水なき為め居住するものなかりし」(『函館区史』)という状況であった。文久元(1861)年頃では五稜郭周辺に千代町、元町、二ノ町、三ノ町、五ノ町、仲町、柳町、本町などの町名がみられ、約6500坪の私有地化がみられた(文久元年「亀田付沽券地地子永取立帳」道文蔵)。
 このような、奉行所の移転による新たなる市街形成において留意する点は、その立地環境である。つまり、函館山の傾斜地から平地へ、そして、亀田川の隣接地に位置しており飲料水をも意識してのことと思われる。このことを裏付けるように亀田川より上水道を敷き郭内に引水していたことが発掘調査などからも確認されている(『特別史跡五稜郭跡』)。しかしながら、この上水道の整備は役宅や奉行所などの一部にすぎず、町中は前述したとおりの状況であった。
 このように、開港以後に短期間にしろ西部地区と五稜郭地区という市街の二分化は函館の都市形成の中でも特徴的事項であり、当時の函館の「場」の歴史性を反映しているのではないだろうか。しかし、このように市街化されつつあった五稜郭周辺も、箱館戦争によって役宅などが焼失し、行政府としての役割を喪失することになった。その後、五稜郭周辺は亀田村の住民による拝借地の願いにより、農地として転用されることになった(明治2巳年7月「沽券地御用留」道文蔵)。