商取引の実態と商人の諸相

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 さきにみた明治11年度「函館商況原稿」は、魚肥の取引について、「従前多クハ京坂及ヒ中国ヨリ和船入港買取ルヲ例トシ、其直接ニ買取スルモノハ稀ニシテ、多ク東京商人ノ手ヲ経テ中国諸県下ニ輸送スルヲ例トナセリ」とし、最近では、魚肥需要が増大したため「京坂中国等ノ巨商、東京商人ノ手ヲ経ス、直チニ当地ニ来航、買取ルモノ数十名ニ及」ぶと述べている。やや意味不明であるが、従前は、中国地方や京、大坂方面への魚肥流通は、日本海海運を通じての和船による取引、いわゆる北前船に依存しており、中国地方や京阪の魚肥取扱商が直接にくることはなかった。直接に取引する場合には、東京商人に委託しておこなった。しかし最近では、直接に函館に来て買取るものが増加した、ということであろう。
 また、別に「東京、大坂、其他各地ノ商人当港ニ輻輳シテ物産ヲ買取ハ、其物品ニ相当スル金員ヲ得ザレバ之ヲ買取ルヲ得ズ。僅々ノ価格ニ眼ヲ注キ、躊躇スルヲ免レズ。当今、銀行開業アルガタメ、此等ノ掛念ナク、偏ニ銀行ニ依頼シテ金員ヲ融通セリ。又、日本形船ハ各地ヨリ需要ノ物品ヲ積載シ現物交換ヲナシ、又ハ其物品ヲ売却シ携帯スル金員ヲ併セテ物産ヲ買去ルモノ夥多ナリ。〆粕等ノ大坂以西ニ輸送スルハ大抵此方法ニ依ルモノトセシモ、現今ハ皆銀行ノ為換ニ依頼セリ。又当地商人ヨリ大坂ニ直輸スルモノモ、従来、僅々相場ノ高低ヲ考ヘ滞坂スルヲ得ザルガ為メ、往々抛売スル景況アリシモ、今日ハ荷物ヲ預ケ、仕入品ニ要スル金員ヲ借受テ帰港シ、相場ノ機会ヲ見テ売却スルモノト為ル」と記している。
 北海道の水産物の移出方法には、一般に、1、大漁場持が自己の船で移送して販売する方法、2、北越・上方方面の船主(いわゆる北前船主)が、本道の海産商から製品を購入し、その船に積み込んで移出し、各地の問屋に販売する方法。3、大坂敦賀などの豪商が、本人または番頭手代を函館、小樽などに派遣して海産商から買い取り、回船を雇い、運賃積みをして移出する方法、があるといわれるが(『新北海道史』通説2)、この時期の函館では、どの方法もみられたことを知ることができる。また、銀行の設立により、金員の融通、荷為替の取組などの便をえて、円滑な取引がおこなわれるようになったのである。
 明治11年度「函館商況原稿」は、「本港ニアッテ物産ヲ買取リ、東京、横浜ソノ他ニ輸(移)出スル商人ノ一、二ヲ掲グ」として、岸田忠三郎、安達丑五郎、蔵田和七、仲栄助の4人をあげている。取扱高は4人で40万1980円、取扱品目は各種水産物、大小豆、鹿皮・鹿角から硫黄や雑貨に及んでいる。『函館区史』は、開拓使時代の商人を4つに大別し、その1つに、「東京、その他府県有力の商人中、函館に着目し、新に来りて営業を開始したる者」をあげ、三井物産会社、鹿島万平のほか、この4人をその例とし、「此等は概ね支店の姿なるも、何れも少なからざる資本を投入して広く営業したるが故に、函館の商業区域を府県各地に拡張するに、大なる効果ありたり」とその特徴を記している。これが、いわゆる「東京商人」なのであろう。
 東京商人については、「明治一五年中橋和之対話録」(『饒石叢書』石川県立図書館蔵)に三井銀行の中西友吉の話として、次のように記されている。
 
当港物産商(当道物産ヲ取扱フ商人ヲ云フ)ノ商業ノ営ミ方ハ、当道産物ノ相場ヲ東京等ノ相場ニ比較シ、其損失ヲ見サルトキハ直ニ買入、蒸気船ノ出帆毎ニ積入、悉ク荷為換ヲ付ケテ東京等ノ問屋ヘ送ルナリ。東京等ノ問屋ハ電信ヲ以、売却、価格ヲ問合セ、指直(値)ヲ以テ売捌クモアリ。又ハ双方信認ノ上着荷ノ節其景況ニ応シ適宜売捌方ヲ荷主ヨリ依托シ置クモアリ。売買共ニ実ニ活発ナルモノナリ。明治十二年頃ヨリ各銀行ヨリ出店スルニ依リテ荷為換ノ道益相進ミタルニツキ東京等ヨリ明治商人(維新已来ノ商人商賈ヲ云フ)、又ハ気力アル壱文ナシノ商人来港シテ物産商トナリ、専ラ荷為換ニ頼リテ其業ヲ営ミ、一ヶ年数十万円ノ産物ヲ取扱フニ至ル。当港屈指ノ物産商ト称スルハ十中八九此類ナリ。而シテ右物産商ハ僅ニ数品ヲ扱フモノニアラサルヲ以テ、一品、又ハ一口ノ売買ニ利益ノ有無ヲ計リ、区々トシテ従事スルモノニアラス。或ハ損失ヲ為シ、或ハ僅カニ利益ヲ得、又ハ利益ヲ得ルコトアレトモ、時々ノ損益ハ更ニ意ニ介スル風情ナシ。傍観者ヨリ視レハ実ニ無頓着ノ売買ヲ為(ス)。…(中略)…然ルニ十四年四、五月頃ヨリ何トナク東京、其他ノ需要地ニ於テ産物ノ捌方不宜シテ輸送ノ物品堆積スルヲ以テ、物産商等モ稍活発ノ志気ヲ挫キ、少シク踟蹰スルノ景況ヲ萠セリ。又、各銀行モ自ラ荷為換等貸金ヲ為スニモ返済ノ如何ヲ顧慮シ、産物ノ価格ニ敢テ低落ヲ見サルモ、此上騰貴ノ見込ナキノミナラス、万一低落スルトキハ荷為換等ノ貸金ニ返済渋滞センコトヲ恐レ、各貸出ヲ扣ヘ、取立方ニ注意セリ。茲ニ於テ元来荷為換等ノ貸金ニ頼リテ、専ラ事業ヲ経営スル物産商頓ニ金銭ノ融通ヲ失ヒ、去暮ニ至リ愈金融ニ困難シ、当港ニ於テ産物ノ買入ヲ為サルノミナラス、各自東京等ニ持囲ヒ物品ノ見切リ売ヲ初メ、従フテ売レハ従フテ下落シ、実ニ莫大ノ損失ニ陥リ、本年一月以後ニ及ヒ、当港ノ物産商、大体破産セサルモノナシ。

 
 ここに東京商人の実態は明らかであろう。東京などからやって来た明治維新以後台頭してきた新興の明治商人や、裸一貫の無資本の商人たちであって、「傍観者ヨリ視レハ実ニ無頓着ノ売買」をする投機的な商人であった。函館で物産商と称するうちの大部分は、この類であったのであろう。
 また、その営業内容は、次にみるような買人(買屋)的業務であったろう。大正4年刊行の『産業調査報告書』第18巻所収の「函館海産物市場」には、「当市場ニ於ケル海産商ニ買人(買屋)及売人(売屋)ノ分業的区別アリ。勿論、何レモ海産問屋ニシテ売人ハ比較的資産信用共ニ厚ク、専ラ産地ト取引ヲ行ヒ、兼テ仕込関係ヲ有スルモノニシテ、当市場ニ於ケル有力ナル商取引機関ナリトス。之ニ反シ買人ニ属スル商人ノ階級ハ資産信用比較的薄ク、一般ニ其期節ニ至リ専ラ売屋ヨリ海産物ヲ買取リ、又ハ直接産地ニ就キ買出ヲ行ヒ、以テ内地取引店ヘ移出スルヲ専業トスルモノニシテ、一面ニ於テ仲買的ノ営業ヲナス。然レトモ其営業範囲ノ判別ハ其全体ヨリ云フモノニシテ、必スシモ明確ナル区別アルモノニアラス。買人、売人共ニ荷主ニ対スル手数料ハ一般規定ニ従ヒ二歩五厘ヨリニシテ、仕込関係アルモノハ五歩トス。而シテ両者売買ノ商取引ヲ仲介スルモノハ仲買業トス」とあるが、さきにみたように東京商人は、まさに、「専ラ売屋ヨリ海産物ヲ買取リ、又ハ直接産地ニ就キ買出ヲ行ヒ、以テ内地取引店ヘ移出」していたのである。しかし、これら東京商人が順調に営業を継続していったわけではない。薄資でも営業ができ、投機的要素が強いため、浮沈が激しく、3県期の不況がおとずれると、「当港ノ物産商、大体破産セサルモノナシ」といわれるように、その大部分は没落したのである。
 
 表6-4 明治11年ころの水産商、および1か年間取扱高
氏名
数量
価格
扱品目
田中正右衛門
37,059
187,236
1,2,3,4,6,8
相馬哲平
3,160
16,500
1,2,3,6,8
金沢弥惣兵衛
2,199
14,780
1,2,3,6,7
藤野喜兵衛
9,905
54,215
1,2,3,4,6,7
鹿島万平
6,878
37,920
1,2,6
徳田和兵衛
798
5,475
5,6,8
矢川四郎右衛門
1,900
13,900
1,2,5,12
明石音次郎
784
5,881
1,2,4
坂井第次郎
720
3,606
1
村田駒吉
4,594
27,760
1,2,3
小林重吉
4,714
38,013
1,2,3,9
佐野孫右衛門
9,600
58,500
1,2,3,6,9,10
松代良吉
565
4,790
1,2,6,11
佐々木忠兵衛
1,150
4,661
1,6,8,12

 明治11年度「函館商況原稿」(北海道立文書館蔵)より
 1.魚粕 2.昆布 3.塩鮭 4.塩鱒 5.塩鱈 6.魚油 7.鮭子
 8.干鱈 9.鹿皮、鹿角 10.硫黄 11.布海苔 12.その他
 
 また、この明治10年代には、売人(売屋あるいは売問屋)、買人(買屋あるいは買問屋)の分化がみられるのであって、明治11年度「函館商況原稿」には、「今、此ニ本港居住海産物営業商売ニシテ漁場仕入ヲ為シ、物産ヲ産地ヨリ買取リ、若クハ所有ノ漁場ヨリ取獲売捌ヲ為スノ稍著名ナルモノ」として、表6-4にあるように田中正右衛門以下14名が列挙されている。1年間の取扱高は、14名で実に8万4375石余、47万3339円余におよぶ。明治11年の函館の移出額159万2588円に占める比率は、29.7パーセントである。
 当時、このような営業者を水産商と呼んでおり、まさに、「比較的資産信用共ニ厚ク、専ラ産地ト取引ヲ行ヒ、兼テ仕込関係ヲ有スル者ニシテ、当市場ニ於ケル有力ナル商取引機関ナリ」といわれる売人、売屋、売問屋そのものである。当時の函館の有力商人の一翼を担う存在であった。
 取扱高の第1位から第4位までは、旧特権商人が占め、その健在ぶりをみせている。取扱価額が19万円ちかくにのぼり、断然他を引き離している田中正右衛門は、旧沖の口問屋商人であり、大津屋田中家は、旧幕時代から箱館付六か場所内で鰊、鰯などの漁場を開き、やがて東蝦夷地樽前の鰯漁業や厚岸郡の昆布や鰊に経営を拡大した漁業家でもあったので、株仲間問屋の特権を剥奪されても、それ程の打撃をこうむらなかった。
 第2位から4位は、旧場所請負人である。3位の藤野喜兵衛は、著名な近江商人柏屋藤野の支店名義であり、道外に本店をもつ、支店型の大場所請負人で、利尻、礼文、宗谷、斜里などの場所請負をおこなうとともに、大阪には近江屋熊蔵名義で北海産荷請問屋を経営した。
 2位の佐野孫右衛門、4位の小林重吉とも、地場の請負人で、ともに東蝦夷地の場所を請負っている。佐野孫右衛門は石狩13か場所内の請負から釧路場所の請負人となり、虻田場所の請負や、北蝦夷地の漁場開拓に手をそめ、明治に入ってからも、釧路、白糠、厚岸郡内などの漁場開拓に取り組み、明治12年には新開漁場が100余か所に達したといい、また、跡佐登硫黄山の開発にも取り組んだ。小林重吉は三石場所の請負人で、漁場持廃止後も三石郡の漁場経営を続けた。明治6年には、いち早く西洋形帆船を所有した。
 5位~7位の鹿島万平、村田駒吉、相馬哲平は、典型的な新興商人である、鹿島万平は、東京商人ではあるが、資力のない山師的な商人として出発したのではない。日本紡績業草創期の功労者として著名であるが、その北海道へのかかわりは三井組の一員としてであって、明治2年開拓使の命をうけて商社出張所を開くために函館に航し、函館と東京・横浜間に荷為替の便を開いたといい、それを契機に、釧路国の厚岸、浜中両地において漁場、昆布浜を開き、その経営にあたった。村田駒吉も相馬哲平も、行商や日雇いから身を起こしたという立志伝中の人である。村田駒吉は、行商から問屋長崎屋の奉公人となり、独立して外国貿易の仲買を業とし、昆布の売買で巨利を得たという。日雇いから身を起こした相馬哲平は、多少の資をえて米穀商を営み、明治17年には米穀商を廃し、その利金10数万円をもって金銭貸付業に転換したといわれているが、この明治11年ころには、すでに漁業仕込業者として重きをなしていたのである。立志伝中の人物は、往々にして刻苦勉励や並はずれた節倹などが宣伝されるが、幕末から明治初年の激動期には、それだけ多くの商機があったのであろう。
 そのほかでは、徳田和兵衛なども注目される。初代和兵衛は水夫から身を起こし、内澗町に商店を開いたが、天保年間には、昆布売買の業を起こすとともに、川汲村の漁民に仕込をなし、村民の生産した昆布、鱈、鰯などの売買を営業するようになった。箱館在方、箱館付六か場所方面を対象とする仕込商として出発しているのである。
 主として水産物の取引を対象に、この時期の函館商人の一端にふれてきた。いまだ商業機能が未分化で、これらの水産物取扱商人も、そのほかの商品の取扱いにも手をそめる多面的な側面ももっていたのである。
 このほか、北海道の移出水産物の取扱業者としては、三井物産会社がある。明治14年1月函館中浜町に支店が設けられた。初代支店長は松岡譲である。すでに、以前から社員を北海道各地に派遣して産物の交易、売買に従事していた。その主な取引は、昆布などの清国貿易の直輸と道産海産肥料を大阪地方に回漕し、府県各地から米穀を移入し、北海道の需用者に売付けることであった。