清国商人の登場

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 以上のように函館の輸出貿易が欧米系商社によってなされていたものが、慶応から明治初年にかけて、その担い手の主体は清国商人へと移行していった。幕府は万延元(1860)年4月にイギリス公使オールコックの申し入れに従い、非条約国民の上陸禁止の件を各開港場の奉行に達しを出した。そのなかで長崎唐館内に在留の清国人は旧来のしきたりもありそのまま在留を認め、また条約締結国の外国人が清国人を連れてきた場合は雇用しているという証書を携帯するように定めた(「米露丁葡清国外国史料」北大蔵)。この達し以降清国人は条約締結国人の雇いであれば、自由に彼らと同様の商活動も可能になったわけである。
 函館での清国人の動きを見ると安政6年8月にはアストン箱館奉行に住居・倉庫の借受けの申請をしているが、そのなかで「召使支那人五人」という表現に見られるように来函に際して清国人を使用人として帯同している(『幕外』26)。アストンのみならず開港期の史料にはポーターやデュースらも同様であったことが分かる。このように清国人の来函は比較的に早いが、彼らは長崎の例に見られるような買弁商人とは違うようである。
 清商が外国商船に搭載して函館に昆布などの買い付けに来たことは柳田藤吉陳玉松の例にあるように開港当初にも見られたわけであるが、函館に居留して本格的な海産物貿易がなされるようになったのは慶応期に入ってからである。同時代史料では確認できないが、例えば明治14年の史料には「慶応三年丁卯清国商人成記号ナル者函館ニ舗店ヲ設ケテ大ニ昆布ヲ買取セリ」とあり、また成記号などの清商の函館進出にともなう買い付けにより昆布相場が高騰し、明治3年では昆布100石の函館相場が1000円台に達したという(「昆布の商況」『饒石叢書』石川県立図書館蔵)。これは前述したように欧米系商社の破綻や慶応元年に長崎俵物体制が崩壊して始めて海産物全体の実質的な自由取引が可能となり、従来の長崎経由のルートから直接函館で買い付けするために来港してきたのであろう。そしてこの成記号(号とは商社や商店の意味)を追うように万順号などの清国商社が次々と函館へ進出してきた。明治5年に来函したフランス人の宣教師マランは「今までヨーロッパ人はたいした貿易関係を持つことが出来ず、唯一の輸出品は海草であって、その貿易はおおかた中国人の手にある。」(「東北紀行」『宣教師の見た明治の頃』)と述べているように海産物貿易が欧米系商人から清商へ移行したことがわかる。
 また明治12年の大蔵省三好保弘、中橋和之両名の調査報告(「函館広業商会事業概略」道文蔵)は成記号の創業当初の事情に関して次のように述べている。
 
…成記号ハ松筠、徳澄ナルモノ長崎ニ来リ初メ些少ノ資本ヲ以テ商売ヲ為セシカ、其後当港ニ来リ支那貿易品ヲ買取リ本国ヘ輸送シ当時当地ノ人民ハ支那貿易ノ如何ヲ熟知セズ其物品ノ価格ハ清国ニ於テ幾許ナルヤ素ヨリ識リ得サルカ故其際莫大ノ利益ヲ得タル事実ニ驚クニ堪ヘタルナリ。之カ為数十万ノ資金ヲ増殖シ当地及横浜、神戸、長崎ノ各店ニ於テ愈貿易ノ利益ヲ得タルモノナリ…

 
 この記述から言えることは成記号の場合でいえば本国において資本を蓄積した階層ではなく、海産物貿易によって利を占めて、日本国内で資産を形成した後に上海を拠点とし、また日本国内の開港場にも営業網を置いて貿易活動に従事したものであろう。このような清商の場合は始めから資本を有して取引を有利に進めたという階層とはいえず、彼ら自身の商才により短期間のうちに資本蓄積をして大きなシェアーを持つようになった。それも当初から成記号という商社があって取引したというよりも、最初は個人あるいは共同で商売を行い、それが成功することで商社的なものへと成長していったと考えられる。成記号や万順号など函館で広範な買い付けをした大手清商は各開港場に店舗を構えて、上海と各開港場の支店とのネットワークを生かした経営をしていた。また群小の清商は出身地別に共同経営をして昆布の買い付けなどを行った。なお『長崎外国人居留地の研究』によれば慶応2年に4名で構成された大森成記、翌3年には2名の成記とあるのがここでいう成記号であろう。ちなみに東和号は20名前後で構成されていることから成記号の成り立ち自体は三好らの報告にあるように小さい規模の商社としてのスタートであった。
 ところで清商の函館進出当初はまだ通商条約が締結されていなかったので、彼らは日本国内では非条約国民であり当然その活動も制約されていった。従って名目上は条約締結国の外国商社の買弁使用人としての立場でしかなかった。来函した清国商人は函館に居留して貿易業を経営しようとする場合は表向きで商取引をすることができないので、欧米商人を身元保証人とし、また形式的には彼らの雇い人となって貿易業に従事した。その大半の清商は大町(後に仲浜町に町名変更)の居留地に居住した。そのため函館の商人と取引する場合、身元引き受け人である欧米商人の名義により契約を交わし、その対価として名義料を支払った。たとえば明治5年3月に開拓使函館支庁で行った在函居留外国人の調査に英国商人ハウルが6名、同ブラキストンが4名、デンマーク商人デュースが13名の清国人の引き受け人となっているのはこのようなことを反映したものである(「開公」5734)。
 明治7年8月にこうした状況を函館支庁は東京出張所あての書類に「……当港在留清国人ノ義ハ是迄他ノ外国人ニ隷従致シ居諸取引共、悉皆外国人ノ名義ニテ商法何割ヲ外国人ヘ共与シ寸服営業致シ外国人モ多分ノ利益ニ相成事故、彼等馴合今日ニ至リ」(「開公」5795)と述べている。また昆布取引をしていた鹿島万兵衛の「昆布販売顛末」(『根室市史』資料編)によれば、明治8年ころの状況として清商との昆布売買に際して取引上のトラブルが生じたさいに「……所謂領事裁判ヘ訴ヲ起サナケレバナラヌ、然ルニ何分其時分ニハ日本人ト外国人トノ裁判ニハ日本人ハ余程不利益ナ時デアル、殊ニ支那商ハ英国人ニ口銭ヲ出シテ英国商人ノ社中ニナツテ居ルカラ訴ヲ起スニハ英国ノ領事官ニシナケレバナラヌ順序ニナツテ居リマシテ、夫レデイツモ縺レガ出来テモツイツイ裁判ヲシテ居レバ時期ガ遅クレマスカラ涙ヲ呑ンデ値ヲ引イテ最初約束シタヨリ安ク売ルト云フ可カラザル困難ガアリマシタ」と述べているように、契約に際して売手側との間にトラブルが生じた場合には、日本人側の交渉相手は名義を貸した外国人となり、その国の領事が交渉にあたるため、多くは清商に有利に事が運んだのである。こうした取引の形態は明治4年日清修好条規が調印(批准は同6年4月)されたあともしばらくは続いたようである。