設置の理由

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 幕藩体制下での金融に関する業務は、幕府または諸藩の支配者に従属していた少数の富豪の手に占められ、純粋の民間金融はその余力で営んでいたにすぎなかった。当時の金融機関である為替組、蔵元、掛屋、御用達、両替商のような者はみな官憲の命を奉じて、委託販売の事務および金融の用務を行っていたのである。北海道では、いまだ蝦夷地と呼ばれていた後期幕領時代、東蝦夷地の産物は箱館沖の口、西蝦夷地の産物は松前沖の口で検査収税する制度を設け、安政4年閏5月7日に密取引防止の方法として箱館産物会所箱館に設置を許された。ついでこの会所江戸、大阪、兵庫下関敦賀等に置いて、蝦夷地より廻送する荷物は会所の周旋を以て売却し、また各地商人より蝦夷地物産元仕入として会所に供托する資金は、これを箱館会所に廻送して請負人、問屋、出稼人等に貸与し、産出物をもってこれを償却するという方法をとった。したがって、一面金融をも取扱って明治維新までに及んだ(『新北海道史』通説1・史料3、『北海道金融史』)。
 維新後、明治政府のもとで、箱館府は本道統治に当って幕府の組織を継承して箱館産物会所も同じく機能を継承して、箱館生産会所と改称された。明治元年10月布達(「函館府御触」)を発して本道産物はこの会所を経由しないで直接売買することを禁じた。元年4月、商業振興と金融の疎通を図るための中央機関として、会計官のなかに商法司(京都)が設立されると、函館会所は為替取引条約を締結して連絡を通じている。明治2年3月、商法司は廃止になったが、新に通商司が設立され、従来大阪、兵庫、姫路等に設立されていた箱館生産会所は、本司の所属となって北海道産物改所に改称された。なお、商法司および通商司が設けた金融に関する機関としては、為替会社および通商会社(のちに開商会社と改称)が設立された。これは会社成立の標本を人民に示すことと、他方には貿易を奨励し、金融を疎通することをはかり、為替会社が金融の融通を目的としていた。明治2年7月制定為替会社規則第24条によれば、函館は新潟、横浜の開港場とともに東京為替会社(神戸、長崎、大阪為替会社)の取扱に属していた(『北海道金融史』)。
 明治2年7月、開拓使が設置され、本道の全般的事務は本使の所管になるということで、同年9月、函館物産改所の廃止を稟申したが、3年3月に太政官は開拓使の所管とするよう指令した。そこで開拓使は三井組および小野、島田両家に開拓使御用達北海道産物取締方を命じ、「産物会所規則」を制定して東京を始め諸国枢要の地に会所を置いた。その款定内容としては、商社の設立、その設置場所、産物改めの手続、会所への納入の税金、廻漕、売買の方法等で、開拓使は従来通商司に属した産物改所の事業を管轄することになった(同前)。
 その後明治5年1月、開拓使は民力休養ということで、3か年間輸出入税を免除することとなり、各地の会所を閉鎖した。
 これよりさき、開拓使は定額金の増加、開拓使兌換証券の発行等で拓殖資金が充実され、明治5年は開拓使10年計画の実施が始る年であった。このような状況下で、資金貸付機関の設置が必要であるということで、明治5年1月に東京(箱崎町3丁目)、大阪(靱北通3丁目)、函館(会所町)の3か所に貸付会所を設置し、北海道税金、定額金、発行証券等支消の余りを貸付し、産物販売、移民授産の流融を助け、その利子で漸次証券を消却し、非常の備とするということで正院の稟裁をえた。とくに貸付会所の設置の必要性について「富豪の徒漁利壟断の弊」があるという点を指摘されているのが注目された(同前、『開事』第5編、「開公」5722)。
 ついで明治11年に「漁業資本貸与規則」を制定して、一般的規定による漁業にたいする金融措置を行った。その貸与額は本庁管内3万円、函館、根室管内各1万円合計5万円で、1か年1割2分の利子を納め、そのうち5分を官収し、6分を貯蓄して年々貸与額に加へ、その金額を官貸金より逓減する方法で、残り1分は取扱諸費にあてた。同年2月5日は第6号をもって根室支庁管下貸付額3万円を増加し、13年8月は同管下貸与額を増加して7万円とした。
 また開拓使が清国貿易(直輸出)のため特定の機関を設け、明治9年10月に内務省勧商局と約締して広業商会を設立した。広業商会の主たる事業は昆布干鮑、海鼠、鯣4品に対して勧業資金の貸与と委託販売とに関することである。当時勧商局の吏員が函館に来訪して開拓使と協議のうえ、販売条約および事務取扱手続書を交換した。開拓使は9年11月、その民事会計両局および各分署宛に約定の布達を行った。ついで、10年5月にその約定を改正し、翌6月には資本金貸与手続を定めた。
 明治12年にこの貸付の事務は大蔵省商務局の主管に移ったが、依然として継続され、資金貸与をえた金額は80余万円に及んだ(『北海道金融史』)。