亀田

3 ~ 5 / 1205ページ
 日本の歴史が江戸時代を迎えると、『福山秘府』、『津軽一統志』などそのころの記録文書の中に亀田邑(むら)、亀田村という地名が出てくるようになる。長禄元(一四五七)年のコシャマインとの戦いに次いで起った永正九(一五一二)年の蝦夷蜂(ほう)起のころ、亀田の近村であった箱館、志濃里(志海苔)に和人の居住地があった。『福山秘府年暦之部、同諸社年譜竝境内堂社部』などによると、寛永十(一六三三)年以後に国下山高龍寺称名寺阿弥陀堂)が亀田に所在している。亀田村八幡宮については造立年が明らかでないが古来からあった旨が書かれている。このころの亀田の位置について『津軽一統志』によれば、あるう川、亀田、箱館、弁才天、亀田崎、しりさつふ、大森湯の川、しのりなどの地名があり、その記述順序から見て、現在の函館港に近い位置にあって一村をなしていたところと解釈できる。箱館、弁才天、亀田崎、しりさつふは函館山のふもとで海岸に面していたが、更に大森湯の川、しのりと函館の東側の海岸沿いに戸数の集まっていたところがあった。あるう川は現在の有川のことで、函館の西側の海浜地帯にあった村である。亀田のたたずまいについては、「川有 澗あり 古城有 一重塀(堀)あり 家二百軒余」とある。亀田の家数二〇〇軒というのは、松前に次いで大きな村であったこともわかる。当時は、上の国百四、五〇軒、福山一二〇軒程、熊石八〇軒で、亀田近くでは「箱館 澗有、古城有、から家あり。しりさつふ 小船 澗あり、家七軒。大森 家十軒、但しから家有。湯の川 小川有、家八軒。しのり 澗あり、家二十四、五軒、から家有。」と書かれており、村といっても数軒か数十軒程度でしかなかった。このように亀田に戸数が増えるようになったのは、文禄二(一五九三)年以降である。この年松前慶廣が制書を賜り、藩制を整えたが、諸法令によって蝦夷地和人地との区別を明確にして、いたずらに和人が蝦夷地に入ることを禁じている。西の熊石と東の亀田に番所を置いて取締ったが、箱館や志濃里など、東の海岸は古くから昆布などの産地として知られ、東の海岸での取引きなどは亀田で行われていたのではないかと推察される。そのため亀田川の入江には停する船も多く、戸数も増加したのである。しかし、元禄時代になると、度重なる暴風雨と洪水によって、家屋の流失や破損の被害が続き、宝永三(一七〇六)年には寺院までが箱館に移転し、寛保元(一七四一)年には亀田番所箱館に移ることになった。このようにして寺院などの箱館への移動が始まるが、一方では亀田川流域での居住者も増えていった。安政元(一八五四)年四月に、アメリカのペリー提督一行が箱館に滞在し、各種の調査を行ったが、『ペリー提督日本遠征記』の函館港の地形測量図には、亀田川や赤川などの状況が詳しい。地形図はケバ式表現法であるが、箱館開港にあたり、飲料水、食糧供給地としての亀田も重視されていた。この地形図はA・バーボット、W・L・マウレー、G・H・プレブル、S・ニコルソンによって作製され、集落、砂丘、田畑などの状況も記入されている。戸数には多少の誤りもあるが、カミダクラ(亀田村)は函館湾に注ぐ亀田川の川口から約八キロメートルさかのぼったところにあって戸数約二〇戸、函館に近い大森浜にも村があって、約二・四キロメートルの範囲に戸数二、三〇戸がかたまり、その間には人家のない砂丘地帯がある。亀田川の川口を現在の万代町あたりと考えると、地図上の亀田村は宮前町から梁川町あたりになる。この集落の東側の丘には樹木が茂り、この一帯から川の上流にかけて幅広く畑作地帯が続いている。亀田川は流路延長約二〇キロメートルに及ぶ川であるが、この図では約八・八キロメートル上流に伸び、この間に一〇戸前後の部落が六か所あって、上流に近いアガンガワ(赤川)には四〇戸以上の集落が見られる。山林と畑地によって赤川の戸数が増えたのであろうが、この図で見るかぎり、安政年間における函館周辺の畑地はこの亀田川流域の広大な地域を除くと、わずかにシエイサワベ(尻沢部=住吉町)に畑地がある程度であった。この地図に示された農産物の生産地と、亀田川の水質が飲料に適した良質の水であるとの報告によって、箱館開港の条件はこの面からも裏付けられた。

ペリー遠征記の地図

 亀田の農業の発達は、江戸時代になってから居住者が増加し、土地条件に恵まれていたために、独自に発達したものと考えられる。松前、上の国などに比較して平地や広大な丘陵があり、北海道の中でも温暖な気候下にあったからでもあろう。安政年間までには水田の試作もあったが、畑作の主な作物は、いも、雑穀類や大根、ねぎなどであった。農地の開墾は文化年間すでになされ、大野村や文月村でも田畑の開墾が始められている。
 亀田は函館と合併したが、歴史的に密接な関係にあって、道南地方で重要な役割を果してきた。亀田の生い立ちや領域の変遷などについては第二章以下で詳述するが、ここでは初期の亀田についての概要にとどめることにした。