蝦夷地の経営は何と言っても安全な航海・航路の確保にある。この時代、西欧の天文学や数学、遠眼鏡・磁石・時計・象限儀・二系儀・渾天儀・天球・地球・星目鑑(星座)など科学的な器具を用いての、方位測定法が確立しつつあった。
〈江戸・蝦夷地の航路〉 この航路の測量については、頒暦所出役堀田仁助・門人の鈴木周助らが、新造船神風丸で江戸から厚岸までの航路の測定を行なっている。また、数学者で海運振興の提唱者本田利明は、享和元年(1801)5月、凌風丸で江戸から根室まで航海し、10月、江戸に帰り、航海日記・長器論・渡海新法の著書を残している。
〈択捉の航路開拓〉 幕府にとって択捉の開発は東蝦夷地経営の重点であった。箱館奉行支配役近藤重蔵は寛政11年(1799)、国後・択捉間の水路開拓を高田屋嘉兵衛に命じた。ここはオホーツク海から南下する3筋の寒流が合流、頗る早い流れの危険な水路であった。嘉兵衛は国後島の北端、アトイヤの高地から潮筋を読み夷舟を浮かべて観察を重ねた。そして70石の船を仕立て、支配役近藤重蔵・船頭ら10人、番人1人、アイヌ3人、16名が乗組み船出した。航路は捷路(近道)を取らず、まず北に相当の距離を迂回し、今度は南下する潮流に乗り計算通り、船は択捉島のタンネモエ湾に到着した。これにより船乗りたちも大船での水路乗り切り自信がつき、以降、択捉の開発が可能となったのである。
〈箱館・江戸航路〉 箱館を根拠地としている嘉兵衛は、箱館・江戸の航路も開いた。
コンブ・俵物や冬の鱈など蝦夷地の物産を、直接大消費地江戸へ運び大いに利益を得た。特に冬季間の蝦夷地の航海はタブーであったが、南下する千島海流を利用し、正月の縁起物の新鱈を箱館から江戸まで3昼夜で運んだと記録に残っている。この航路の開設により、箱館港は直接江戸からの物資や文化・情報が入り込み大いに繁栄し、高田屋や箱館の商人が商圏とする箱館六ケ場所も、漁は勿論、沿岸の海運・流通も盛んになった。尻岸内場所の1850年代の記録では、持符や磯船などの小型漁船の他、運搬船の大・中遣船や90石積図合船・筒船、根田内場所では百石以上の弁財船を2艘も持つようになっていた。
箱館・江戸航路の開設により、気仙沼・石巻・仙台辺りから江戸までの東回り航路が、西回り航路・北回りと繋がり日本全国を一周する航路が確立した事になる。
〈箱館・佐井航路〉 蝦夷地から奥羽にわたり、陸路、江戸に赴くには西の松前・三厩間、東の箱館・佐井間の航路があったが、東は危険が多いと利用する船は極めて少なかった。しかし、箱館港が東蝦夷地経営の中心となった寛政11年以降は、最も近い東の航路を利用する船が増え、船乗り達もこの海域の対馬暖流と千島海流がぶつかり合う複雑な潮流や、風向きを読み、次第に航行に熟練していった。この時代、佐井は日和見・帆待ちの湊として大いに繁栄したと言われている。