続縄文土器の分布は、津軽半島から日本海沿岸地域にかけては希薄で、分布はやや東に片寄るものの、ほぼ全域に及んでおり、約四〇遺跡が確認されている。津軽地方では江別式土器を出土する遺跡は約一〇遺跡あまりで、弘前市では石川長者森遺跡(図8)、小友遺跡が知られている。いずれも江別C2・D式と考えられる。
図8 津軽地方の続縄文土器および併存する弥生土器
江別式に後続する北大式土器は、現在のところ津軽地方では出土していない。青森県内では、この時期の遺物は大半が採集資料であったが、先に触れた天間林村森ヶ沢遺跡では続縄文文化の特徴をもつ墳墓から、北大Ⅰ式土器と黒曜石の小破片という北海道系遺物と、供献具である五世紀後半の土師器・須恵器などの古墳文化の遺物が共伴した。つまり、墓坑形態は続縄文文化の色彩が強いが、副葬品は相対的に古墳文化の影響が色濃く認められ、この地における古墳文化と続縄文文化の間に交流関係があったことを示している。
続縄文文化の前半期には、多くの墳墓のほか、道東部では舌状の張り出し部をもつ隅丸方形ないし小判形の竪穴住居が、また道西南部では円形ないし楕円形の竪穴住居が知られている。中葉になるとこれらの遺跡数はピークに達し、後半期に至るまで多くの墳墓が見つかっているにもかかわらず、住居の発掘例は少ない。墳墓の数から考えると人口が増加していたことは間違いないと思われるが、この現象は北海道だけではなく、東北地方北部についても基本的には同様のことがいえるであろう。青森県内における江別C2・D式土器の分布状況をみても、拠点的にこの地に移り住んだ人々は、北海道と同じく河川に依存した生業を営んでいた可能性が強い。現在のところ、これら北海道系の遺物は、ごく短期間のキャンプ地的性格をうかがわせるものだけではなく、一定期間の定住者が使用した可能性が強いことが、岩手県盛岡市永福寺山(えいふくじやま)遺跡の墓壙群、秋田県能代市寒川(さむかわ)Ⅱ遺跡の墓壙群や大館市館コ遺跡の竪穴群などの例から推定できる。北大Ⅰ式土器を伴う森ヶ沢遺跡の例も定着者が残したものであることを強く示唆しているのである。そして、古墳文化と続縄文文化の交流の中心は、東北地方北部から石狩低地帯以南にあったとみてよさそうである。