さて、この環壕集落は、主要とみられる数軒の竪穴を空堀・土塁・柵列などの施設で区画して、その後背地に集落の主体部分を配置する構造のものと、空堀・土塁などの施設で集落全体を囲む構造のものと、二つのタイプがあり、前者は上北地方に特徴的にみられ、後者は津軽地方で特徴的にみられるが、規模は構造的にみても後者が圧倒的に大きい。このふたつの基本的形態は、地形的な制約と時間差からさらに細かく分類されている。これまでのところ、出土遺物から年代が推定できる環壕集落はふたつのタイプを合わせて約二十例あり、すべて一〇世紀中葉から一一世紀後半のうちに位置づけられている。そして、これらすべての事例が十和田a火山灰と白頭山-苫小牧火山灰のふたつの広域テフラ降下後に構築されていることが確認されている。年代的には、上北地方では一〇世紀中葉から一一世紀中葉、津軽地方では一〇世紀後半から一一世紀後半に位置づけられる。
津軽地方では形態的にみて、もっとも類例の多い第一番目のタイプは、中里城跡や弘前市荼毘館遺跡、小友遺跡、石川長者森遺跡(図21)などのように、舌状台地あるいは丘陵の周囲に空堀をめぐらし、さらに主要部分を直線的な堀で台地を切断する。第二番目は浪岡町高屋敷館遺跡(図22)や蓬田大館遺跡などのように、低平台地の端部に空堀で半円形あるいは「コ」の字状に区画を施し、集落全体をその区画内に収める。第三番目は、碇ケ関村古館遺跡(図23)、種里城跡、黒石市高館遺跡などのように、周辺の沖積地との比高差が三〇~六〇メートルの急崖斜面をもつ丘陵頂部の平坦面に集落だけを配置したり、その根部を空堀で切断したものと、この三タイプが存在する。
図21 津軽型環壕集落の類例1(弘前市石川長者森遺跡)
図22 津軽型環壕集落の類例2(浪岡町高屋敷館遺跡)
図23 津軽型環壕集落の類例3(碇ケ関村古館遺跡)
第一と第三のタイプは、外観上、中世の城館に類似し、かつ鉄生産が活発に行われていたことを示す遺物の出土が目立っている。また、一〇世紀末葉から一二世紀前半まで環壕集落として機能していたと考えられる高屋敷館遺跡の土塁は堀の外側に築かれているという点が非常に特徴的であるが、一〇世紀後半の所産である市浦村福島城も同様の堀と土塁をもつ大規模な城館である。しかしながら、高屋敷館遺跡も福島城もともに戦乱など社会的緊張関係の痕跡をうかがうことはできない。環壕集落の特徴として、鉄生産に関わる遺構や遺物、そして擦文土器の出土が目立つという点から推(お)して、当時の交易体制にかかわるものが多かった可能性が考えられる。
このような環壕集落は、しばしば北海道地方で発達したアイヌ文化のチャシとの関連で説明されることがあるが、その多くは防御施設としての観点から論じられており、考古学的に知られるチャシの年代観からみても必ずしも当を得た説明とはいい切れない面がある。環壕集落の性格についてもそのような一面的な評価では断定できないであろう。普遍性のある歴史の解釈としても、もう少し別の観点からチャシとの比較を行って、この種の施設の普遍的性格を探っておくことにしよう。