「大浦城」は文亀二年(一五〇二)三戸南部氏安信(やすのぶ)が、種里城の光信に大浦城を築かせ、鼻和郡の本拠地としたとされている(史料八七七)。光信は大浦城に長子の盛信を置いて大浦氏を名乗らせ、光信自身は種里城にそのまま居住していたようである。そして大浦盛信の子である為信が大浦城を拠点として領土拡張の戦に突入していくことになる。
大浦城や城下町の規模や構造を、さまざまな絵図面や地籍図などの資料を基に復元した図面に基づきながら説明をしていくことにする(図63・写真204)。
図63 大浦城と大浦城下町と街道
写真204 大浦城跡航空写真
まず、大浦城は本丸・二の丸・三の丸・西の丸・西ノ郭・南曲輪というように六つの曲輪から成り立っていることが明らかとなった。その中で、本丸と二の丸部分には「桝形虎口(ますがたこぐち)」と呼ばれる近世城郭築城技法による虎口(出入口)が設けられる。そして二の丸部分は平成八年度(一九九六)の発掘調査などにより掘立柱建物跡などが作られていたことも確認された。
次に大浦城の城下町であるが、旧百沢街道が一町田(いっちょうだ)・高屋(たかや)(旧坪貝(つぼかい)村)を過ぎ、賀田(よした)字大浦の地内に入る手前で緩く左に屈曲する地点から城下町が始まることになる。百沢街道とは、弘前から駒越(こまごし)-熊島(くまじま)-高屋-五代(ごだい)-宮地(みやじ)-新法師(しんぼうし)(以上岩木町)を経て百沢へ至る道であるが、さらに枯木平(かれきたい)(岩木町)から松代(まつだい)(鯵ヶ沢町)へも続く街道でもあった。
この賀田字大浦の地内に入る手前で街道が屈曲しているということは、町並みが簡単に見通せなくなるよう工夫された結果である。この屈曲の少し西側には堰があり、その堰の先から賀田の集落となる。大浦城下町の特徴は、街道に沿った形で両側に「短冊形地割」が設けられていることである。北側には二〇筆、南側には細い短冊形地割も含めて二〇筆ある。短冊型地割の間口は、堰に近い東側寄りでは、北側のものが間口幅が広いのに対して、南側では間口が狭いものが多い。そのようなことから、計画的な城下町であったというよりも、時代とともに必要に迫られて城下町が膨らんでいったことによる影響で、このような不規則な地割りとなったのではないかと考えられる。そして間口幅が不規則な短冊形地割を一五筆ほど進むと、間口幅が均等に設けられた部分に出ることになる。この部分が城下町建設における中心部であった可能性が高い。また、この町並みの西端近くで北へ分岐する道沿いにも、東側に七筆、西側に六筆の短冊形地割が並んでおり(図63②部分)、ここもまた城下町の一部であったものと考えられる。さらに③部分は、大浦城に接する場所に位置することから城と密接な関係にある人の居住空間と考えられる。短冊形地割の間口もおよそ一四メートルと幅広となる。この③の町並みを過ぎた地点が大浦城の「三の丸=曲輪Ⅲ」に突き当たる、その曲輪Ⅲとの接点地点で、街道は南側にほぼ直角に折れ曲がり、百沢方面に向かっていくことになる。この折れ曲がる街道正面には、慶長十七年(一六一二)まで津軽弘前藩の惣鎮守八幡宮があった。そのようなことからも、この街道が中世段階まで遡(さかのぼ)って存在していた可能性が高いことを物語っている。一方、南側に大きく屈曲した街道はおよそ四〇〇メートルで大浦城の南側の堀・土塁と平行する形で西側に延びて、寺院街のある門前地区に向かっていくことになる。門前地区は「五代旧門前地区」と呼ばれ、長勝寺(ちょうしょうじ)・海蔵寺・隣松寺(りんしょうじ)・明教寺などがあったと伝えられている(写真205)。
写真205 旧門前地区(岩木町五代)
以上のように、大浦城下町は大浦城を東西に走る百沢街道に沿って細長く町が形成されていたことになる。その規模は総延長およそ九〇〇メートルと津軽地域を掌握する拠点的な性格を有する城下町としては、規模が小さかったということがいえる。
また平行街路が見られない単純な町割りから、戦国城下町としては極めて素朴なものであったということがいえる。そのことは、すなわち家臣団編成の問題を始め、商・工業者の集住がまだ本格的に進んでいなかったことや、商・工業者・職人などを抱える形態が充分に整えられていなかったことによるものではなかろうか。