同じような時期に、檜山(ひやま)の安東愛季(あんどうちかすえ)の家臣奥村惣右衛門(おくむらそうえもん)へ宛てた愛季の弟湊茂季(みなとしげすえ)の書状(「秋田藩家蔵文書」)(史料一〇〇九)に見える、「右京亮(うきょうのすけ)殿」がそれに当たると考えられる。内容は檜山安東氏が比内(ひない)の浅利氏や為信との間で書信による交誼のあることを示すものである。
戦国時代の津軽地方では、大浦為信を中心として領土拡大や勢力拡大の野望による侵攻が激しく行われていた。その攻防は大浦(為信)、波岡北畠、三戸南部(晴政(はるまさ)・信直(のぶなお))、下国安東(愛季)、蠣崎(かきざき)(慶広(よしひろ)・季広(すえひろ))といった人物が複雑に絡み合った状態で展開されていくことになる。
歴史的にみると、津軽地域では天文二年(一五三三)ころに、南部安信(やすのぶ)が藤崎城主安藤教季(のりすえ)を討ち、平賀町大光寺(だいこうじ)城主葛西頼清(かさいよりきよ)を討って、弟の高信(たかのぶ)を石川城に入部させる(史料八九八)、いわゆる津軽の反乱から始まる。反乱の中心は葛西一族の大光寺城主や藤崎安藤氏で、一五世紀の半ば以来南部氏に従ってきた津軽領主層の、南部氏の支配強化に対する抵抗からであった。文亀二年(一五〇二)という説(史料八七四)もある。しかし南部氏が安東氏を滅ぼし津軽領内に侵攻してくることから始まることには変わりはないようである。永禄五年(一五六二)三月には、波岡北畠氏の内部で内紛が生じ、川原御所具信が波岡御所具運(ともゆき)を殺害し、その仕返しに川原御所具信も波岡北畠具運の子の顕忠(あきただ)らに殺され、結果的には川原御所が滅亡してしまう(史料九七五)。そして永禄九年から十一年(一五六六~六八)にかけて、三戸城主南部晴政軍と秋田檜山城主安東愛季軍の間で領界である鹿角(かづの)郡をめぐる合戦が行われる。結果的には南部氏側の勝利に帰し、鹿角郡中を確保したことなどが記録(史料九五二)として残されている。
また、大浦氏と南部氏との対立抗争の要因は、津軽の統一や下剋上などといったものではなく、土地の取り合いと伐(き)り取りである。その過程における在地勢力の取り込みと、日本海交易に参加することにあったということができる。
南部氏は延徳三年(一四九一)、南部久慈(くじ)氏の一族光信(みつのぶ)を津軽西浜種里(たねさと)に入部させ、安藤氏への押さえとし、文亀元年(一五〇一)、閉伊郡の千徳(せんとく)氏を滅ぼし一戸氏を入部させるなどして津軽平野中央部と領内辺境を固めることに力を注いでいる(史料八六〇)。そしてその後種里城から大浦城に拠点地を変え、もともとは同族であった南部氏が支配していた岩木川東岸地帯と浅瀬石(あせいし)川、平(ひら)川沿岸から南部勢力の駆逐を図っていた。その代表的な合戦としては、元亀二年(一五七一)五月の南部氏が津軽地方支配の拠点としていた石川城の攻撃(史料八七四・八七五)から始まり、天正三年(一五七五)八月には平賀町の大光寺城攻撃(史料一〇〇〇・一〇〇一・一〇〇二)、天正六年(一五七八)には北畠氏の波岡城攻略(史料一〇一五)、天正七年(一五七九)七月には檜山勢との六羽(ろっぱ)川での合戦(史料一〇二六・一〇二七)などが挙げられる。さらに天正九年(一五八一)前後に西浜(にしはま)地域で起こった「西浜蜂起」によるアイヌ民族との抗争の結果、大浦氏は西浜地域に居住していたアイヌ民族を掃討することに成功をしたようである。そのことによって津軽半島中央部を掌握し、天正十三年(一五八五)三月に、中世における奥大道(おくだいどう)の終点であり、なおかつ蝦夷島への出入り口で物資の重要な集散地であった外ヶ浜油川(そとのはまあぶらかわ)(大浜(おおはま))を攻撃(史料一〇五九・一〇六〇・一〇六一)するということになる。為信によって攻撃された時の油川城の城主は奥瀬膳九郎(おくせぜんくろう)と伝えられている。油川城は大きな曲輪がひとつ大きく作られ、それに付属するように小さな曲輪が二つ設けられるという構造を示している。このような構造の城館跡は、県内で見られる中世城館跡の中では特異な構造であるといえる。この油川城がある油川を基点として津軽半島の突端に位置する三厩(みんまや)まで、仕置役による外ヶ浜支配がなされるという重要な場所であった。
このように中世後期の戦国時代には、当市域を含めた津軽地方において合戦が激しく繰り返し行なわれ、それらの合戦の舞台となったのがそれぞれの領地を統括する拠点としていた中世城館跡であったのである(図66)。
図66 戦国時代の代表的な城館跡配置図