当市域内にある城館跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の城館跡としては石川城跡や、堀越城跡、和徳城跡などが挙げられる。これらの城館跡は、はじめから領国支配をすることを目的に築かれた城館である。しかし堀越城跡などは、数時期にわたり改変が行われていたことが考古学的な調査によってしだいに明らかとなってきている。
石川城跡は、天文二年(一五三三)か文亀二年(一五〇二)に三戸南部安信が、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清を討って津軽を平定した後、津軽地方を支配する拠点として南部高信によって築城されたもので、大仏ヶ鼻(だいぶつがはな)という山城と「内館」と呼ばれる曲輪を中心とした平城が合体した形の城跡である。ちなみに南部安信・高信による津軽平定と石川城への拠城は、南部氏の領国支配強化政策の中で行われたものである。
また、堀越城跡は大浦氏が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。
その他、当市域外ではあるが津軽氏に関係する城館跡としては、鯵ヶ沢町の種里城跡や岩木町の大浦城跡なども挙げられる。これらの城館跡を拠点として津軽領国の統一が行われていくことになるのである。