信枚の越後転封は結局沙汰やみになったが、この騒動の最中に津軽弘前藩にとって一つの重要な点も消滅してしまった。それは、信枚が六月二十一日付けで国元の服部長門・白取瀬兵衛宛てに出した申渡状(同前No.三七二)に記載されていた「越後への加増転封」もなくなったことである。弘前藩は何万石になる予定だったのだろうか。先述した「八十三騎」の記事では、信州川中島で一〇万石といっている。これに対して、国文学研究資料館史料館所蔵の津軽家文書の中に、正徳元年(一七一一)に五代藩主信寿(のぶひさ)が幕府に提出したと思われる文書の写である「徳川家との由緒につき津軽土佐守御書き付け覚」という史料がある。それには「元和年間に十五万石の高で信州へ所領替えをするという将軍の内意があった」という文言があり、津軽家はこの時一五万石に加増される可能性があったのである(浅井潤子「津軽の国替騒ぎ」『史料館報』六 一九七八年 国立国文学研究資料館史料館刊)。加増転封先が信州のみの表記であるが、越後国魚沼郡と信州川中島で合わせて一五万石であったものと思われる。
なお、福島正則は、信州高井郡高井野邑(たかいのむら)(現長野県上高井郡高山村)に蟄居(ちっきょ)した。元和六年(一六二〇)三男忠勝が没したため、越後国魚沼郡の二万五千石は幕府に返上された。正則は寛永元年(一六二四)七月十三日高井野邑において六十四歳で没した。この時、家臣の津田四郎兵衛が幕府の検使が到着する前に、高井郡鴈田(かりた)村の厳松院(長野県上高井郡小布施町雁田)において遺骸を火葬したため、幕令違反を問われ残りの領地を没収された(『国史大辞典 第一二巻』一九九一年 吉川弘文館刊)。