正保の信義排斥事件

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津軽伊豆が死去した翌正保四年(一六四七)、また騒動が持ち上がった。藩主信義の不行跡により、お家安泰のため幕府に訴えて信義を押し込め処分とし、弟の津軽信英藩主にしようとするものであった。一味連判をしたものは、津軽信隆(のぶたか)・津軽権之丞杉山八兵衛大道寺宇左衛門富岡武兵衛大野甚右衛門島村角兵衛村山七左衛門北村久左衛門青木兵左衛門の一〇人である(資料近世1No.六九四)。ところが、このうち北村と津軽信隆が仲間を裏切り、信義にこの企てを告げたため、島村父子は暇を出され中村(現鰺ヶ沢町中村町)で、大野は浅瀬石(現黒石市浅瀬石)でそれぞれ浪人生活を送ることとなり、あとで殺害された。富岡は信義の妹松姫を妻としていたが、のち切腹処分となっている。この年の十二月二十八日に出されたと思われる盛岡采女(うねめ)と北村久左衛門に宛てた山田勝重杉山吉成(よしなり)の書状によれば、当時富岡が御預け処分になっていたことが判する(同前No.六九三)。また、信義の弟である津軽信隆はこの年十二月に五〇〇石の加増を受けているが(同前No.六九五)、加増理由はこの事件と関係があるのかもしれない。

図76.津軽百助(信隆)宛津軽信義知行加増黒印状

 なお、慶安元年(一六四八)閏正月十七日に弘前城中において、乱心した村山七左衛門北村久左衛門を討つという事件が発生した(同前No.七〇〇)。村山は信義排斥の一員として名前を連ねており、富岡が切腹した時の介錯人であった。この事件は、村山の乱心が原因ということになっているが、北山が寝返ったことに対する村山の怒りが真の原因であったのかもしれない。津軽信隆はこの年二月十三日さらに三〇〇石の加増を受けており(同前No.七〇五)、二年連続しての大幅な加増は、信義の信隆への懐柔策であり、津軽信英支持派に対する牽制(けんせい)のねらいがあったのではないかと思われる。ちなみに、信隆はこの時点で一三〇〇石の禄となったのである。