大名の改易と幕領検地

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元禄時代は、大名の浮沈が激しかったこと、家格制度が完成した形になっていないこと、そして大名の勤役課役の選定基準ができるのは大名の家格が固定してからのことであるという視点から、将軍と大名、および大名相互の関係は、近世後半よりはまだ動きのあった時代、家格に基づく秩序の形成途上にあった時代といわれる(松尾美恵子「元禄を考える一二のアプローチ⑥ 大名」『アエラムック 元禄時代がわかる。』一九九八年 朝日新聞社刊)。
 将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の大名に対する立場は、将軍の権威とその厳しさを大名に対して示そうとしたものであり、大名たちを徳川家の家人として位置づけ、それに徹しようとするものだった(塚本学『徳川綱吉』一九九八年 吉川弘文館刊)。綱吉は、「賞罰厳」といわれるように大名の改易転封を多く行った。その対象大名数は四〇余人に及んだという(松尾前掲論文)。
 この綱吉政権下での幕府財政は、将軍綱吉の奢侈(しゃし)と護国寺(ごこくじ)・護持院(ごじいん)等の造営に代表されるような支出増大、商品生産および都市発展に触発された物価騰貴によって、政権末期にかけて悪化の一途をたどったとされる。その反面、綱吉は就任当初から幕府の財政再建にも熱心であり、財政機構改革新田開発改易大名領を加えた幕領の増加、不正代官の糾弾や旗本知行蔵米地方直し、一連の地方対策、それに連なる年貢増徴策などの策を講じて幕府財政収入の強化に取り組んだ(大野瑞男『江戸幕府財政史論』一九九六年 吉川弘文館刊)。
 このうち、幕領の増加と改易大名領の関連性をみると、綱吉政権当初から元禄五年(一六九二)までに改易された大名の総石高は一一〇万石を越え、この間の加増石高は三三万石に過ぎず、差し引きで幕領石高が増加することとなり、元禄五年の幕領石高は四〇一万三八四〇石余となって、初めて四〇〇万石の大台に乗っている。さらに元禄十年の幕領石高は四三四万六五〇〇石余と享保時代以前の最大値を示すが、その理由の一つとして、美作(みまさか)津山一六万七八〇〇石を領していた森家が改易されたことが挙げられる。このように、幕領の増加に占める大名改易領地取り込みの割合が非常に大きいことがわかる(大野前掲書)。
 幕領検地の執行は、家綱政権下の延宝五年(一六七七)畿内・近国幕領検地施行時から、幕府役人から近隣諸藩が当たるという形に変更された。これは、在地と密接な関係を有する代官の不正を防止する目的があったとされるが、確かなことはわからない。
 この後、綱吉政権下にかけて近隣大名を幕領検地に動員することが常となる。綱吉政権期の特徴は、先にみた大名の改易転封に伴って増加した幕領検地の対象とされている点である(『日本歴史大系 三 近世』一九八八年 山川出版社刊)。これらの検地は単なる土地の丈量・査検にとどまらず、改易地処理の一環としての性格を色濃く有していたが、支配関係上変遷がみられた地域すべてが対象となるわけではなく、①家中騒動領内仕置の不備によって混乱状態にある地域、②元禄期段階に至ってもなおこの時期通例の検地竿の長さとして用いられる一間=六尺一寸竿が使用されず、旧来の検地結果に基づく石高標示が温存されていた地域、③検地水帳そのものが欠損あるいは不完全な場合、など検地実施を必然化するいくつかの理由が考えられるという(大森映子「大名課役と幕藩関係―元禄十二年備後福山の幕領検地―」『歴史学研究別冊特集 世界史認識における民族と国家』)。