藩では、寛文元年の諸法度の第二項目で、百石士の嫡子、および二〇〇石以上の子弟は、十一歳より弓馬・諸礼・読書に習熟し、十六歳以上になったならば、「学問義理之講習」や武芸の稽古を暇無く続けるよう、父兄が教戒すべきこととして定め、諸士子弟の文武を奨励している。
また、同じ年の信政初入部に随行してきた儒者小宮山元益(こみやまげんえき)が、評定所において月六回の講筵(こうえん)を開いたのが、藩自体が武士に対して教育を開始した始めとみられる。城中で講席が開始されたのは寛文五年七月八日であり、中書院において論語の講談が行われた(「年代記」)。翌年正月八日には元益に小学の講釈を始めさせ、藩士達にも上下を問わず列席するよう命じている(「国日記」寛文六年正月八日条)。
儒学とともに、兵学も城中で講義が実施されるようになった。この時期以降の藩の兵学は、藩主信政自身の傾倒もあり、山鹿素行の唱える山鹿流が藩の兵法として重んじられ、講じられることになった。
信政も元禄七年二月十五日、儒学を奨励した綱吉の講釈を江戸城内で聞いている。同年帰国した信政は、儒学・兵学の振興により一層力を入れる。まず信政自身が六月五日に重臣・近侍を相手に兵書を講じている。さらに六月十七日には城中梅之間において儒者小泉由己が大学の講義を行い、家老・用人が聴講している。八月から十月にかけて信政が領内視察に赴いた留守の間にも、二と九の日(二、九、十二、十九、二十二、二十九日)に「中庸(ちゅうよう)」を小泉が、三の日(三、十三、二十三日)に兵書を磯谷十助が講じている。信政は翌年三月十八日、参勤のため弘前を出発するに当たり、留守中の学問・武芸出精を命じた(「国日記」元禄八年三月十八日条)。翌日、小泉の「論語」講釈が、家老盛岡主膳元長邸で開始された(同前元禄八年三月十九日条)。注目すべきは、同月二十三日、儒学・兵学・武術のそれぞれの定日と場所が発表されている点であり、藩士に対する文教政策の組織化が進んだことがうかがわれる。
しかし、この年は「元禄の大飢饉」が発生した年であり、その影響か、この藩士に対する講義は停止された模様である。これ以後、元禄期の「国日記」には城中での講筵の記事が散見し、正徳二年(一七一二)、評定所において家中を対象とする毎月六度の講釈の開始が命じられた(『記類』上、羽賀与七郎「津軽信政とその文教」『弘前大学国史研究』二五)。