表25 寛文~天和期の検地関係記事 |
年 月 日 | 対 象 地・そ の 他 |
寛文 5年 | 明暦以後の開発地 |
寛文11年 2月26日 3月13日 8月 | 外浜 在々 高杉・広須・西浜・三千石の各遣。不作のため中止。 |
寛文12年 8月16日 9月 2日 | 検地役人誓紙提出。ただし地域不明。 外浜打出検地役人誓紙。 |
延宝元年 5月 9月13日 | 総検地奉行任命。 西浜検地 |
延宝 3年 3月12日 | 在々。困窮のため延期となる。 |
延宝 6年 | 打残し検地。 |
延宝 7年 3月13日 10月 1日 | 寛文11年以来の残り,藤崎・浪岡・下ノ切の各遣検地。 検地、役人廻郷出発。 |
延宝 8年 10月26日 10月27日 | 外浜上磯検地 検地目録提出。 大光寺遣四ヵ村検地目録提出。 |
天和元年 2月28日 | 例年の通り,検地役人任命。 |
4月21日~25日 | 検地役人帰弘。 |
9月21日 | 検地役人出弘。 |
11月 8日 | 検地役人帰弘,登城。 |
天和 2年 3月 8日 | 検地役人出弘。 |
4月 9日 | 越後高田検地へ動員のため中止。検地役人江戸登り。 |
注) | 『津軽藩の基礎的研究』P175-176より作成。 |
延宝七年(一六七九)の検地は、検地勤方については、寛文十二年(一六七二)八月二十七日に申し渡した「箇条」どおりに書いたものを渡しており(「国日記」延宝七年三月十三日条)、少なくとも延宝七年(一六七九)までの検地は、寛文十二年(一六七二)以来一定した基調の下で行われていたとみてよいであろう。一方、翌延宝八年(一六八〇)十月二十六日、在々の「惣御検地」を終えた黒土刑部左衛門・林吉右衛門が「御検地惣目録」を提出している。黒土・林は、前年の検地における検地奉行である(このとき、検地奉行は、六人が二人一組で任命された)。そして、翌二十七日には、大光寺遣(だいこうじけん)本田舎館村・上田舎館村・小杉村・柏木村四ヵ村の検地目録が個別に提出されている。この検地は、斎藤与五右衛門・矢作十右衛門が検地奉行を務め、黒土らとはまったく別に検地を行っていたと思われる。検地目録は、検地奉行が派遣された地域ごとに作成され提出された。そして、天和期にも検地は継続され、天和元年(一六八一)にも三組の検地が、春秋二期にわたり実施された。
天和二年(一六八二)も、検地奉行三人が弘前を出発している。しかし、三月十九日、越後騒動で改易された、松平光長(みつなが)の領地であった越後高田領の検地を命じられたため(資料近世1No.八四二)、領内の検地は一時中止ということになり、四月九日には、検地奉行の三人は、弘前に帰ることになった。検地奉行三人、もしくは三組という編成、そして春と秋の二期に検地が実施されるという在り方は、延宝期の検地を踏まえたものであると思われる。
これらからわかることは、まず、検地奉行の編成は三人あるいは三組で実施されていること、また、おおむね春と秋の二期に検地が行われたことである。そして、延宝七年(一六七九)の検地が寛文十二年(一六七二)以来のものであり、それが天和二年までの検地に踏襲されていたことから、これらの検地は一連の意図のもとで実施されたものと考えられる。