津軽弘前藩の寛政改革は、基本的には八代藩主信明(のぶはる)の政治方針を引き継ぎ、九代藩主寧親(やすちか)によって具体化された政治改革であり、したがって広くは両藩主の在任期間の天明四年~文政八年(一七八四~一八二五)がその改革期に当たる。ただし、これまでみてきたように、改革の中心は藩士土着策であり、その展開と、藩政の展開を大きく左右した蝦夷地警備への対応を考えれば、改革の中心時期は寛政期(一七八九~一八〇〇)であったとしてよい。
ここでは、これまで広く指摘されてきている改革の諸政策と藩士土着策との関連性についてみていくことで、総合的に当藩の寛政改革をとらえることとする。その中であらためて、農村からの直接の収取が可能な状態を作り出した藩士土着策が改革の中心政策であったことが浮き彫りにされると同時に、他の諸改革が対農民政策に深くかかわる性格のものであったことが示されるであろう。併せて都市政策が農村政策とのかかわりで打ち出されていたことにも注意を払いたい。
さて、土着廃止後の寛政末年から享和初年にかけて、矢継ぎ早にその後始末のための法令が出され、土着前の状態に戻す努力がなされている。代官機構の再編や縁組み規定の解消、知行の蔵入化および切米取・金給家臣の知行に召し直された分の切米・金給への引き戻し、城下の屋敷割や町割などがその主なものであるが、これ以後の藩政の動向は積極的な新田開発と殖産興業の推進であった(今野敏「津軽藩政に関する一考察」『日本歴史』一〇六)。そこで、まず新田開発・廃田復興の面から土着策施行期とそれ以後の政策基調をみていくことにする。