天明七年(一七八七)から寛政元年(一七八九)にかけて展開された大庄屋制(おおじょうやせい)の失敗から、この時期、藩による廃田開発(はいでんかいはつ)は、平沢三右衛門を廃田開発役に命じ、彼が藩から開発を請け負う形で進める形態をとっている(『平山日記』寛政四年七月条)。つまり、平沢が見立てた廃田を藩に申し立て、それに藩が許可を与えて必要経費を出し、それをもって帰国した人々や遊食の者(村々に田地を持たない小者で、廃田の多い村に住居させた者〈同前寛政五年条〉)を廃田地に配置したり、あるいは仮子(かりこ)や近郷の百姓を動員して開発する方法である。しかしながらこの場合、帰国した人や遊食の者の供給には限界があり、馬・飯料・農道具・萱・材木などの支給や、一年間の鍬下年季(くわしたねんき)(開発に伴う年貢の免除期間)といった優遇策(同前)にもかかわらず、やはり開発主体は郷役(ごうやく)として動員された百姓であった。
ところが、このような開発も、寛政四、五年以降の蝦夷地問題の緊迫化のなかで立ちゆかなくなっていく。『平山日記』寛政五年条によれば、松前出人夫がおびただしくなることによって、百姓が直接開発のための郷役を務めることができなくなり、そのため百姓が仮子を雇い入れざるをえない仕組みができ、それによって百姓の潰れが多くなってきたことが記されている。この結果、労働力は仮子を中心としたものとなってくると同時に、その労働価値の増大に伴い、仮子給銀は急上昇していく(瀧本壽史「宝暦・天明期津軽藩農村の諸問題」『弘前大学国史研究』七一)。
この状況に対し、藩は寛政八年十一月、仮子頭による統制をやめ、手代・庄屋による仮子統制に切り替えている。そして仮子一人ごとに、上中下三段階に位付けした給銭や名前などを記入した手札を渡して、代官レベルで把握する方法を打ち出している(資料近世2No.八六)。しかしながらこの、人不足→仮子給銀の上昇→百姓潰れ→人不足という悪循環は、松前出人夫の継続と藩財政拡大のための開発の必要性によってますます助長されており、この傾向は土着策廃止後も続いている。
土着策施行期の廃田開発は、基本的に百姓負担によって行われていたのであり、蝦夷地警備の問題が深刻化する中で、その負担はますます大きなものとなっていった。