ロシアによるエトロフ襲撃事件

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文化四年、幕府は松前および東西蝦夷地一円を直轄化するが、これに大きな影響を与えたのが、同三年から四年のロシアによるサハリン(北蝦夷地、カラフト)やエトロフなどの日本施設への襲撃事件であった。
 ことの発端はロシア使節レザノフが文化元年、交易を求めて長崎に来航したことに始まる。レザノフは松平定信が先に根室(ねむろ)に来航したラクスマンに与えた信牌(しんぱい)を携えており、通商許可の期待を抱いての長崎入港であった。しかし幕府は長く待たせたあげく、翌二年三月ロシアの通商要求を拒絶した。交易を断られたレザノフは、部下のフウォストフらに報復の遠征を指示したのである。
 同三年九月、フウォストフらはサハリン南部のクシュンコタンに上陸して米や酒を略奪したり、運上屋などの施設や図合船(ずあいぶね)(小型の運送船)などをことごとく焼き払った。また越年中の番人四人も捕らえている。
 ロシアの襲撃はさらに続いた。翌四年四月、フウォストフらは択捉島のナイボを襲い、番人を捕らえ食料を奪い、番屋などを焼き払った。続いてエトロフの中心であるシヤナに二度にわたって上陸し、勤番津軽弘前盛岡藩兵を撃退し、ナイボ同様、食料・武器を奪い、会所・倉庫などを焼き払った。このあと、ロシア船はウルップ島に寄港したのち、サハリンからリイシリ(現北海道利尻郡利尻町)に向かい、番屋などを襲撃しながら、やがてオホーツクに帰還した。
 このレザノフ来航から択捉島などの北辺襲撃に至る過程は、幕府や奥羽諸藩のみならず、民衆をも巻き込んで、対外危機意識をめることとなった。
 なお、文化四年三月の幕府による松前および西蝦夷地の上知と松前藩陸奥梁川(やながわ)(現福島県伊達郡梁川町)転封は、クシュンコタン襲撃の情報がいまだ幕府にもたらされていない時期の決定であり、このエトロフ襲撃事件が直接の契機となって蝦夷地一円の上知が決定されたわけではない。しかしながら、この事件がレザノフ来航の延長上にあり、また上知段階の定数に加え、各藩に臨時出兵が要請されるなど、この襲撃事件への対応をピークとして、日ロ間の緊張関係が、その後の警備人数などを規定していることから、蝦夷地警備の在り方に大きな影響を与えたといってよい。